私たちは、自然の恵みの中で生かされています。
先ず、三度の食事です。お米は、自然の恵みであり、皆さんの好きなきな肉は、動物の命をいただいています。これらあたりまえのようにいただいていませんか、
そういった命の尊さを感じていただいて欲しいです。
朝、起きることがうれしくてたまりません。、もし万が一、朝目覚める事ができなければどうでしょう、命の終わりがきたらどうしますか。
寿命はわかりません。わたしも六〇歳です・あと何年生きられるかわかりません。ひょっとしたら、明日亡くなるかわかりません。そう思うと怖いです。
そんな時、ものの命に感謝しないと、ダメだと思います。
私は、自然の恵みに生かされていることに感謝することだと思い、毎朝、本堂での勤行は欠かせません。手を合わし、祈ることだと思います。更に、人々の安穏をいのることが、僧侶のつとめです。
また、お参りの人々の出会いがありがたいです。
若しよろしければ、朱印でお出会いを楽しみにしています。
先ず、三度の食事です。お米は、自然の恵みであり、皆さんの好きなきな肉は、動物の命をいただいています。これらあたりまえのようにいただいていませんか、
そういった命の尊さを感じていただいて欲しいです。
朝、起きることがうれしくてたまりません。、もし万が一、朝目覚める事ができなければどうでしょう、命の終わりがきたらどうしますか。
寿命はわかりません。わたしも六〇歳です・あと何年生きられるかわかりません。ひょっとしたら、明日亡くなるかわかりません。そう思うと怖いです。
そんな時、ものの命に感謝しないと、ダメだと思います。
私は、自然の恵みに生かされていることに感謝することだと思い、毎朝、本堂での勤行は欠かせません。手を合わし、祈ることだと思います。更に、人々の安穏をいのることが、僧侶のつとめです。
また、お参りの人々の出会いがありがたいです。
若しよろしければ、朱印でお出会いを楽しみにしています。
Posted by 住職日記 at
07:37
11月9日(土)午後2時より、玉泉寺において、御十夜を行います。
この法要は、先祖様に感謝して、今年一年間、お米の収穫、畑ものの収穫、たくさんの物の命に感謝して、お念仏を唱える修行です。どうぞ私たちに、心安らかにくらすことができるように祈る法要です。
昔は、10日間、お念仏を唱えて、人々の苦労をねぎらい、幸せを祈ってきたそうです。現在は、短縮して、1日で終わります。
内容は、阿弥陀経を読む、数珠繰りをして、先祖様を偲ぶ、ご詠歌を唱えて、先祖供養をします。
また、説教をして、人々に安らぎを与えます。
今回は、近江八幡に居住の西福寺住職西澤義博上人に説教
をしてもらいます。
西澤儀博師は、安曇川にご縁がありまして、私の友人です。是非とも、お参りください。
私たちは、一年に一度、先祖様の追善を行うことで、より豊かにくらすことができるのがありがたいことです。
今、人々は、生きづらさを感じながら、くらしています。仏様の智慧を学び、誰もが生きやすく感じてもらえるもらえるよう願う法要ですので、宗派を問わずを考えています。どうぞお参りください。
時間は、午後2時から6時です。
この法要は、先祖様に感謝して、今年一年間、お米の収穫、畑ものの収穫、たくさんの物の命に感謝して、お念仏を唱える修行です。どうぞ私たちに、心安らかにくらすことができるように祈る法要です。
昔は、10日間、お念仏を唱えて、人々の苦労をねぎらい、幸せを祈ってきたそうです。現在は、短縮して、1日で終わります。
内容は、阿弥陀経を読む、数珠繰りをして、先祖様を偲ぶ、ご詠歌を唱えて、先祖供養をします。
また、説教をして、人々に安らぎを与えます。
今回は、近江八幡に居住の西福寺住職西澤義博上人に説教
をしてもらいます。
西澤儀博師は、安曇川にご縁がありまして、私の友人です。是非とも、お参りください。
私たちは、一年に一度、先祖様の追善を行うことで、より豊かにくらすことができるのがありがたいことです。
今、人々は、生きづらさを感じながら、くらしています。仏様の智慧を学び、誰もが生きやすく感じてもらえるもらえるよう願う法要ですので、宗派を問わずを考えています。どうぞお参りください。
時間は、午後2時から6時です。
Posted by 住職日記 at
08:30
人間の心なかは、いったいどうなっているのでしょうか。
さっきまで、さも楽しそうにしゃべっていた二人が突然争い出すと言うことがあります。
心の片隅に小さくなって反省していた善の虫が、相手の一言によって、突然悪の虫に変わることがあります。
「私が悪かった」と思っているところへ、そのことに触れられると、しゃくにさわって、とたんに返す言葉が違ってくるのです。
だって「あのときは」といってみたり、「あなたが先に」と言ったりして、自分を正当だてて、罪を逃れようとします。
言い訳、責任逃れ、をしてもまだまだ心がおさまらず、引きつった顔を持ち歩いてしまいます。
触れて欲しくない面に触れられるとそうなってしまうのです。
また一方で、空き巣ねらいが子どもを助ける事もあります。
善から悪へ、悪から善へ、その場、その場でころころと変わるのが人間の心なのです。
しかし、人間はそういうものなのだ。と決めつけて、そのままにしておくのは困ります。
なぜなら、人間は皆恥じる心をもっています。
自分の過ちを悔いる。ということは、もうちょっとましな人間になりたいという願いをもっています。
悔いることによって、人間は明るい日差しのなかへ歩み出すことができるのです。
私が悪かったと気づいたなら、善を行え。と釈尊は諭されています。そうすれば、汗をかいて病気が治るように、罪が消えてゆくといわれています。そしてそれはまた、人間は幸せになる道であるのです。
人間の心のなかには、悪の種と善の種が同居しているのです。
悪との縁があれば悪の種が芽生え、善との縁があれば善の種が芽生えるのです。できる限り善いものを吸収して、善の種を芽生えましょう。
そこに学ぶ大切さや感動する大切さがあり、自分の心の中に美しいものが芽が吹いてくるのだと思います。
さっきまで、さも楽しそうにしゃべっていた二人が突然争い出すと言うことがあります。
心の片隅に小さくなって反省していた善の虫が、相手の一言によって、突然悪の虫に変わることがあります。
「私が悪かった」と思っているところへ、そのことに触れられると、しゃくにさわって、とたんに返す言葉が違ってくるのです。
だって「あのときは」といってみたり、「あなたが先に」と言ったりして、自分を正当だてて、罪を逃れようとします。
言い訳、責任逃れ、をしてもまだまだ心がおさまらず、引きつった顔を持ち歩いてしまいます。
触れて欲しくない面に触れられるとそうなってしまうのです。
また一方で、空き巣ねらいが子どもを助ける事もあります。
善から悪へ、悪から善へ、その場、その場でころころと変わるのが人間の心なのです。
しかし、人間はそういうものなのだ。と決めつけて、そのままにしておくのは困ります。
なぜなら、人間は皆恥じる心をもっています。
自分の過ちを悔いる。ということは、もうちょっとましな人間になりたいという願いをもっています。
悔いることによって、人間は明るい日差しのなかへ歩み出すことができるのです。
私が悪かったと気づいたなら、善を行え。と釈尊は諭されています。そうすれば、汗をかいて病気が治るように、罪が消えてゆくといわれています。そしてそれはまた、人間は幸せになる道であるのです。
人間の心のなかには、悪の種と善の種が同居しているのです。
悪との縁があれば悪の種が芽生え、善との縁があれば善の種が芽生えるのです。できる限り善いものを吸収して、善の種を芽生えましょう。
そこに学ぶ大切さや感動する大切さがあり、自分の心の中に美しいものが芽が吹いてくるのだと思います。
Posted by 住職日記 at
07:50