現代社会は、科学による事が多い、
天気は、予報士が、科学的に分析して、テレビ、ラジオを知らせて、安全に暮らせるようにする。
電気製品は、理工学部で勉強した技術者がテレビ、洗濯機、パソコンを作って、人々の暮らしに便利にさせる。
ものを開発して、人間の暮らしに快適さを求めていく。ところが、古代から、江戸時代までの人々の暮らしは、便利さというものがなかった。
自然の驚異を知り、神仏をいのり、その日を無事に暮らせるよう、不断の努力が必要であった。もし、怠れば、不幸な生き方が待っていた。
愛宕信仰、講、など、人々が集まり、3人寄れば文殊の知恵みたいに生きてこられた。
ものをたくさん手に入れられることでいれば、幸福感を味わえる。逆にものがなければ、不幸観を味わう。
なにか変ですよね。家の中は、ものであふれていて、捨てる事もできない状態であることが幸せななのでしょうか。
なにもないところで生きる事こそが、幸せ感がえられると思います。
宗教は、幸せ感を味わえるのではないかと思う。心で観る眼を養うことができれば、どんな苦しいことでも乗り越えられるのだと思います。
天気は、予報士が、科学的に分析して、テレビ、ラジオを知らせて、安全に暮らせるようにする。
電気製品は、理工学部で勉強した技術者がテレビ、洗濯機、パソコンを作って、人々の暮らしに便利にさせる。
ものを開発して、人間の暮らしに快適さを求めていく。ところが、古代から、江戸時代までの人々の暮らしは、便利さというものがなかった。
自然の驚異を知り、神仏をいのり、その日を無事に暮らせるよう、不断の努力が必要であった。もし、怠れば、不幸な生き方が待っていた。
愛宕信仰、講、など、人々が集まり、3人寄れば文殊の知恵みたいに生きてこられた。
ものをたくさん手に入れられることでいれば、幸福感を味わえる。逆にものがなければ、不幸観を味わう。
なにか変ですよね。家の中は、ものであふれていて、捨てる事もできない状態であることが幸せななのでしょうか。
なにもないところで生きる事こそが、幸せ感がえられると思います。
宗教は、幸せ感を味わえるのではないかと思う。心で観る眼を養うことができれば、どんな苦しいことでも乗り越えられるのだと思います。
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08:36
現代社会は、幸せになるために生きている。誰もホームレスになりたくない。一杯欲しいものが手に入れられることが幸せと勘違いされている。
ほんとに、欲望が満たされば幸せなのでしょうか。欲望というのはありの巣地獄のようなものである。手に入れても手に入れても欲望が満たされない。最後には借金地獄に落ちるだけなのに、そんなことに気づかない人が多い。
家があって、家族のみんなが笑顔で生きられるだけでいいではありませんか。それが幸せというものではありませんか。すなわち無欲の心で生きることが幸せなのです。必要最低限のものがいるのが、仕方がないですが、すべて、お金のいることである、お金は、たくさん持てば、悩みの種が増えるし、苦しむのです。なければないでいいと思う。ない人が求めるから、くるしくなり、幸せから見放されるのです。ちょうどいいという表現があるように、偏らない心でいることです。これが悟りではないでしょうか。なかなか至れない心です。昔はお金などなかった。田畑で作物を作り、それで人々が暮らしていた。何の欲もなかったはずです。でもいまは、お金で人の心は左右されて、苦しまなければならないのです。哀しい事です、
悲しさは不幸だと考えます。
ほんとに、欲望が満たされば幸せなのでしょうか。欲望というのはありの巣地獄のようなものである。手に入れても手に入れても欲望が満たされない。最後には借金地獄に落ちるだけなのに、そんなことに気づかない人が多い。
家があって、家族のみんなが笑顔で生きられるだけでいいではありませんか。それが幸せというものではありませんか。すなわち無欲の心で生きることが幸せなのです。必要最低限のものがいるのが、仕方がないですが、すべて、お金のいることである、お金は、たくさん持てば、悩みの種が増えるし、苦しむのです。なければないでいいと思う。ない人が求めるから、くるしくなり、幸せから見放されるのです。ちょうどいいという表現があるように、偏らない心でいることです。これが悟りではないでしょうか。なかなか至れない心です。昔はお金などなかった。田畑で作物を作り、それで人々が暮らしていた。何の欲もなかったはずです。でもいまは、お金で人の心は左右されて、苦しまなければならないのです。哀しい事です、
悲しさは不幸だと考えます。
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09:32
五時に目が覚め、お仏飯を仏さまにお供えして、法華経のよみ、今日の安穏を祈り、外に出て、掃除です。
なんと、朝露に濡れた草、落ち葉を掃きました。初秋を観じました。あの暑かった夏はもう過去となり、まだ見ぬ秋の訪れに不思議さを感じる。
こうして、人間たちは年取るのだときづく。草や桜の木は、一年を経ずして、土に帰る。なんとはかないこと。
そう思えば、人間は、一年を無事に過ごせば、また来年という未来を見ることができる。ありがたいことでです。
だけど自分の思い通りに生きる事ができれば、その苦しさを感じない、いったん壁に突き当たり、一歩もすすむことできなければ、それは苦しみに遭う。これが人間なんです。楽と苦の狭間でのたうちまわるのです。生きる喜びがあれば、生きる苦しみもあります。後者は大変です。
そんなとき、仏教の教えにであれば、その苦しみも半減して、生きる望みが芽生えてくる。それがお寺の役割有るのです。
お寺は、娑婆世界の苦しみや禍を取り除いてくれるのです。是非当山にお越し下さい
なんと、朝露に濡れた草、落ち葉を掃きました。初秋を観じました。あの暑かった夏はもう過去となり、まだ見ぬ秋の訪れに不思議さを感じる。
こうして、人間たちは年取るのだときづく。草や桜の木は、一年を経ずして、土に帰る。なんとはかないこと。
そう思えば、人間は、一年を無事に過ごせば、また来年という未来を見ることができる。ありがたいことでです。
だけど自分の思い通りに生きる事ができれば、その苦しさを感じない、いったん壁に突き当たり、一歩もすすむことできなければ、それは苦しみに遭う。これが人間なんです。楽と苦の狭間でのたうちまわるのです。生きる喜びがあれば、生きる苦しみもあります。後者は大変です。
そんなとき、仏教の教えにであれば、その苦しみも半減して、生きる望みが芽生えてくる。それがお寺の役割有るのです。
お寺は、娑婆世界の苦しみや禍を取り除いてくれるのです。是非当山にお越し下さい
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07:16
来月の初め、大きな台風がきます。備えあれば憂いなしという言葉通り、対策をしておけば、なんとか急場をしのげるのですが、最近の災害をみrていれば、とんでもないことが起こっています、人命も犠牲になっています。ほんとかなしいです。
これこそ地獄の世界です。地獄とは、あの世にあるのでなく、このよに生を受けている人々のくらしに有るのです。悪い行いをすれば、悪い報いがくるというように、悪い行いを戒めないといけないのです、それが仏教なのです。その仏教に関心を持っていただきたい。いったい仏教という学問はなにがかかれているのでしょうかという興味をもっていただきたい。
当山にお参りをしていただける方に仏教のお話をしています。
当山にきていただけるかたには、何か得することを考えて居ます。このご縁を大切にしています。
これこそ地獄の世界です。地獄とは、あの世にあるのでなく、このよに生を受けている人々のくらしに有るのです。悪い行いをすれば、悪い報いがくるというように、悪い行いを戒めないといけないのです、それが仏教なのです。その仏教に関心を持っていただきたい。いったい仏教という学問はなにがかかれているのでしょうかという興味をもっていただきたい。
当山にお参りをしていただける方に仏教のお話をしています。
当山にきていただけるかたには、何か得することを考えて居ます。このご縁を大切にしています。
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09:05
三宝とは、3つの宝です。仏法僧という3つの宝です
人間生きて行くために、仏とは、仏さまであり、法とは教えを聞くそして、僧とは、仏を供養して、仏さまの行いを実践して、人々の行いの手本を見せる事であります。
西方浄土には阿弥陀様がおられます。その阿弥陀様に出会えることは一番の幸せであると信じて、仏さまの教えをきいて、そして実践すれば、素晴らしい生き方ができるという解釈ができます。
たとえば、他人にうそをつけば、そのひとは地獄におとされるという話です。うそをつかないで、正直に生きる事は、言い人生が送れるという。世政治家が、うそをつけば、ひとはそのうそを暴かれるために、またうそをつく、そるとどうなるでしょう。まるで、苦しみの蟻地獄におち、いつまでも、人から非難されます。生きてここちがしません。正直にいきておれば、必ず救われて、胸を張って堂々といきられる。これが幸せに生きると言うことではないでしょうか。
つまり、仏法僧の3つの宝を得ることができれば、幸せに生きる事になります。
仏さまを念い、法を信じて、そして善い行いをしていれば、生きがいのある生き方ができると、お釈迦様は説いておられるのです
人間生きて行くために、仏とは、仏さまであり、法とは教えを聞くそして、僧とは、仏を供養して、仏さまの行いを実践して、人々の行いの手本を見せる事であります。
西方浄土には阿弥陀様がおられます。その阿弥陀様に出会えることは一番の幸せであると信じて、仏さまの教えをきいて、そして実践すれば、素晴らしい生き方ができるという解釈ができます。
たとえば、他人にうそをつけば、そのひとは地獄におとされるという話です。うそをつかないで、正直に生きる事は、言い人生が送れるという。世政治家が、うそをつけば、ひとはそのうそを暴かれるために、またうそをつく、そるとどうなるでしょう。まるで、苦しみの蟻地獄におち、いつまでも、人から非難されます。生きてここちがしません。正直にいきておれば、必ず救われて、胸を張って堂々といきられる。これが幸せに生きると言うことではないでしょうか。
つまり、仏法僧の3つの宝を得ることができれば、幸せに生きる事になります。
仏さまを念い、法を信じて、そして善い行いをしていれば、生きがいのある生き方ができると、お釈迦様は説いておられるのです
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10:02
今年の彼岸どうでしたか。世の中は、外出がする人が増えたそうです。もう我慢ができずに、行楽地に出かけたと聞いています。
仕方がないですね。これ以上辛抱していると、経済がなりたたないし、飲食店、観光地には、生きるための糧がはいらなくなります。
税金は高いし、とくに灯油、ガソリンが値上がっているし、電気代も高くなっています、そして農家では、稲刈りの最盛期で、稲を乾かすため、ボイラーが24時間動かされています。いま、生活するのに大変になっています。早くコロナが収束するのを願うばかりです。
朝5じに起床、洗面、朝の勤行、そのあと。境内地の掃除。草むしり、落ち葉の掃き掃除、ツツジの剪定などなど、1時間ばかり励み、そして、食事
。そして、本道の掃除である。これが日々の繰り返しの連続です。
朝の風が冷たく観じ。これから寒い冬が来ることの不安を感じます。
仕方がないですね。これ以上辛抱していると、経済がなりたたないし、飲食店、観光地には、生きるための糧がはいらなくなります。
税金は高いし、とくに灯油、ガソリンが値上がっているし、電気代も高くなっています、そして農家では、稲刈りの最盛期で、稲を乾かすため、ボイラーが24時間動かされています。いま、生活するのに大変になっています。早くコロナが収束するのを願うばかりです。
朝5じに起床、洗面、朝の勤行、そのあと。境内地の掃除。草むしり、落ち葉の掃き掃除、ツツジの剪定などなど、1時間ばかり励み、そして、食事
。そして、本道の掃除である。これが日々の繰り返しの連続です。
朝の風が冷たく観じ。これから寒い冬が来ることの不安を感じます。
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09:59
彼岸入りから最初の祝日、お墓参りの参詣者が、当山に来て頂いています。大変ありがたい事です。彼岸は、悟りの道を行くと言います。
悟りとは、自己を振り返り、今での生き方がこれでよかったかをかんがえる時です。
悪いことが続いているのなら、どこが悪かったのかを考え、その悪いところを直すのです。良いことが続いているのなら、おごり高ぶりをなくして感謝の気持ちでいきていくのです。
私も、ほんと悪いことが続きました、悪かった事を反省して、悟りの道に進むことをお誓いしています。
もう二度と過ちを繰り返さないよう反省しています
悟りとは、自己を振り返り、今での生き方がこれでよかったかをかんがえる時です。
悪いことが続いているのなら、どこが悪かったのかを考え、その悪いところを直すのです。良いことが続いているのなら、おごり高ぶりをなくして感謝の気持ちでいきていくのです。
私も、ほんと悪いことが続きました、悪かった事を反省して、悟りの道に進むことをお誓いしています。
もう二度と過ちを繰り返さないよう反省しています
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09:44
昨日の台風で、高知、和歌山に大きな傷跡を遺して、通り過ぎました。被害にあわれた皆様には、お見舞い申し上げます。
生きると言うことに何だろうといつも思います。災害で、家が壊されて、おひがんどころではないのに、どう生きて言いよいかわからなくなる。
家も財産も失い、生きることが難しくなる。
私は仏様の御利益があるから、良いことをしましょうと伝えていますが、災害に逢われたかたには、言葉をかけることができない。自然の驚異に思い知らされます。どんなだけ、準備していても恐ろしいことになる。いま、わたしは、反省しています。
準備をおこたり、情報に左右されて動けなかったことに対して反省の一日でした。
自然の災害は、いつどこであうのかわからない。そう思うと、人々の財産を守るのが、今私のつとめなのです。今後は、自然の驚異を考えて、私がこの世に存在する役割を果たしていきたいです。
生きると言うことに何だろうといつも思います。災害で、家が壊されて、おひがんどころではないのに、どう生きて言いよいかわからなくなる。
家も財産も失い、生きることが難しくなる。
私は仏様の御利益があるから、良いことをしましょうと伝えていますが、災害に逢われたかたには、言葉をかけることができない。自然の驚異に思い知らされます。どんなだけ、準備していても恐ろしいことになる。いま、わたしは、反省しています。
準備をおこたり、情報に左右されて動けなかったことに対して反省の一日でした。
自然の災害は、いつどこであうのかわからない。そう思うと、人々の財産を守るのが、今私のつとめなのです。今後は、自然の驚異を考えて、私がこの世に存在する役割を果たしていきたいです。
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08:54
人間、裸で生まれきて、どうして不足におもうのでしょうか。
私は、「不足そうな顔して」小さい頃、母からいわれてきました。ものが家の中になかった事だと思います。友達が持っているものが、私にはなかった事だと思います、あの当時、家に収入がなかったのか、ひもじい暮らしの毎日であった事が、子どもの頃の思い出です。おもちゃもないし、他の家にあるものがなかったことです。ほしいものが手に入れることができなかった、だから不足そうな顔をしていたのでしょう。
今となって考えてみると、布施しかなかったのです。お参りに行かない日がありました。そうすると、現金収入がなかった聞かされていました。
私が成人して、ある方のご縁で、勤めることができました。そうしたら、毎月、給料がいただけました。このときほど、感謝でいっぱいです。これで好きなものが買えるとおもったのですが、小さい頃の習慣は変えることができなかったのです。そのいただいた現金は、自分のために使うことができなかったです。今では、ほしいものというのはありません。そのおかげで、趣味も特技も有りません。ただ、家族のためにつかうことしか考えて居ません。そして、お寺のため、人々の為にしか使うことができません。みんながよりよく暮らしていただければ、それで良いと考えて居ます。
所詮、生まれるときも裸、死ぬときも裸なんです。これが真実なんです・
私は、「不足そうな顔して」小さい頃、母からいわれてきました。ものが家の中になかった事だと思います。友達が持っているものが、私にはなかった事だと思います、あの当時、家に収入がなかったのか、ひもじい暮らしの毎日であった事が、子どもの頃の思い出です。おもちゃもないし、他の家にあるものがなかったことです。ほしいものが手に入れることができなかった、だから不足そうな顔をしていたのでしょう。
今となって考えてみると、布施しかなかったのです。お参りに行かない日がありました。そうすると、現金収入がなかった聞かされていました。
私が成人して、ある方のご縁で、勤めることができました。そうしたら、毎月、給料がいただけました。このときほど、感謝でいっぱいです。これで好きなものが買えるとおもったのですが、小さい頃の習慣は変えることができなかったのです。そのいただいた現金は、自分のために使うことができなかったです。今では、ほしいものというのはありません。そのおかげで、趣味も特技も有りません。ただ、家族のためにつかうことしか考えて居ません。そして、お寺のため、人々の為にしか使うことができません。みんながよりよく暮らしていただければ、それで良いと考えて居ます。
所詮、生まれるときも裸、死ぬときも裸なんです。これが真実なんです・
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15:16
お寺でも。お家でも、習慣として仏さまのお茶湯をお供えします。小さい湯飲みのお水をお供えしています。
お彼岸前に親戚のこどもが遊びに来ました。そしてはじめは本堂がめずらしく走り回っていましたが、水をあげる私に興味を示して、その子どもが私をじっと見ていました、
飲まないのに
飲むかもしれないよ
飲まないよ
・・・・・・無言
水を飲むのはまわりの人間や、かっている動物と言いたげです、
さらにその子どもは
飲まないのにどうして
飲まないかもしれないけど、お水を上げるとうれしいから
その子は不満げでしたが、また、本堂で遊びははじめました。
そんな子どもとの他愛もない言葉でしたが、その子どもに印象づけられたように思いました。
見えなくてもお花を供えたい
食べなくても食べ物をそなえたい
聞こえなくても話したい
見えざるものへのまごころは美しい。
それが仏のこころではないかと最近思うようになりました。
お彼岸前に親戚のこどもが遊びに来ました。そしてはじめは本堂がめずらしく走り回っていましたが、水をあげる私に興味を示して、その子どもが私をじっと見ていました、
飲まないのに
飲むかもしれないよ
飲まないよ
・・・・・・無言
水を飲むのはまわりの人間や、かっている動物と言いたげです、
さらにその子どもは
飲まないのにどうして
飲まないかもしれないけど、お水を上げるとうれしいから
その子は不満げでしたが、また、本堂で遊びははじめました。
そんな子どもとの他愛もない言葉でしたが、その子どもに印象づけられたように思いました。
見えなくてもお花を供えたい
食べなくても食べ物をそなえたい
聞こえなくても話したい
見えざるものへのまごころは美しい。
それが仏のこころではないかと最近思うようになりました。
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09:00