人間の心なかは、いったいどうなっているのでしょうか。
さっきまで、さも楽しそうにしゃべっていた二人が突然争い出すと言うことがあります。
心の片隅に小さくなって反省していた善の虫が、相手の一言によって、突然悪の虫に変わることがあります。
「私が悪かった」と思っているところへ、そのことに触れられると、しゃくにさわって、とたんに返す言葉が違ってくるのです。
だって「あのときは」といってみたり、「あなたが先に」と言ったりして、自分を正当だてて、罪を逃れようとします。
言い訳、責任逃れ、をしてもまだまだ心がおさまらず、引きつった顔を持ち歩いてしまいます。
触れて欲しくない面に触れられるとそうなってしまうのです。
また一方で、空き巣ねらいが子どもを助ける事もあります。
善から悪へ、悪から善へ、その場、その場でころころと変わるのが人間の心なのです。
しかし、人間はそういうものなのだ。と決めつけて、そのままにしておくのは困ります。
なぜなら、人間は皆恥じる心をもっています。
自分の過ちを悔いる。ということは、もうちょっとましな人間になりたいという願いをもっています。
悔いることによって、人間は明るい日差しのなかへ歩み出すことができるのです。
私が悪かったと気づいたなら、善を行え。と釈尊は諭されています。そうすれば、汗をかいて病気が治るように、罪が消えてゆくといわれています。そしてそれはまた、人間は幸せになる道であるのです。
人間の心のなかには、悪の種と善の種が同居しているのです。
悪との縁があれば悪の種が芽生え、善との縁があれば善の種が芽生えるのです。できる限り善いものを吸収して、善の種を芽生えましょう。
そこに学ぶ大切さや感動する大切さがあり、自分の心の中に美しいものが芽が吹いてくるのだと思います。
さっきまで、さも楽しそうにしゃべっていた二人が突然争い出すと言うことがあります。
心の片隅に小さくなって反省していた善の虫が、相手の一言によって、突然悪の虫に変わることがあります。
「私が悪かった」と思っているところへ、そのことに触れられると、しゃくにさわって、とたんに返す言葉が違ってくるのです。
だって「あのときは」といってみたり、「あなたが先に」と言ったりして、自分を正当だてて、罪を逃れようとします。
言い訳、責任逃れ、をしてもまだまだ心がおさまらず、引きつった顔を持ち歩いてしまいます。
触れて欲しくない面に触れられるとそうなってしまうのです。
また一方で、空き巣ねらいが子どもを助ける事もあります。
善から悪へ、悪から善へ、その場、その場でころころと変わるのが人間の心なのです。
しかし、人間はそういうものなのだ。と決めつけて、そのままにしておくのは困ります。
なぜなら、人間は皆恥じる心をもっています。
自分の過ちを悔いる。ということは、もうちょっとましな人間になりたいという願いをもっています。
悔いることによって、人間は明るい日差しのなかへ歩み出すことができるのです。
私が悪かったと気づいたなら、善を行え。と釈尊は諭されています。そうすれば、汗をかいて病気が治るように、罪が消えてゆくといわれています。そしてそれはまた、人間は幸せになる道であるのです。
人間の心のなかには、悪の種と善の種が同居しているのです。
悪との縁があれば悪の種が芽生え、善との縁があれば善の種が芽生えるのです。できる限り善いものを吸収して、善の種を芽生えましょう。
そこに学ぶ大切さや感動する大切さがあり、自分の心の中に美しいものが芽が吹いてくるのだと思います。
Posted by 住職日記 at
07:50