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Posted by 滋賀咲くブログ at

2019年08月28日   人にものをほどこせば、我が身の助けとなる

 人にものをほどこせば、我が身の助けとなる,.たとえば人の為に火をともせば、我が前あきらかになるがごとし。この言葉のたとえとして
食には三つのとくあり、「一つには命を継ぎ,、二つには色を増し、三つには力を添う。」と言うことになる。
 ある信者さんが、何かの食物を施したことからその施す行為をたたえたことから始まるのです。
確かに、食物には、生命を維持し、色つやをよくし、力を加えるという三種の大切の働きがある。その行為は、他の人の為になるだけでなく、施した人自身を助けることになる教えで有ります。

 食べものに限らず、土地、や財産、健康や能力など。自分の持ち物を増やすことに明け暮れているのが私たちの日常生活ですが、
そのような生活の奥底にはそれらすべてを我が物と勘違いし、握りしめようとする執着の心がうごめいている。それが人生の苦悩を生み出す原因となる。
悟る人間は、執着心を克服するするために智慧の光を見いだしたいことを願って仏道に励むのであります。そう考えれば、他の人の為に、自分のもっている何かを施すと言う行為は、自我に対するとらわれを離れようとする仏道の実践なのである。



Posted by 住職日記 at 09:32

2019年08月27日   思うこと一つ叶えば、また一つ

金貨の雨を浴びるとも
諸欲には飽くことなし
されば
わずかなりとも
諸欲を味わうは
苦しみなり
賢き人は知れるなり

能くというものは、煩わしいものである。それを人間は貪り狂う。だから苦しみが生まれる。でも生きて行く上においては必要なものである。
食べ物をおなかいっぱいになれば、それ以上欲しくない。眠りも足れば目が覚める。つまり足ること知るものであるに対し、財欲、名誉欲だけは人間のみである。
今の人たちは足ることを知らない。手に欲を持てば、汚染され、もっと欲しくなる。最終は、堕落して行く。こんな生き方がよいのであろうか。
少欲知足の心で生きて行けば、人生充実するだろうと思う。
身体を壊してまでよくを求めるのは、いかがななものか。


Posted by 住職日記 at 08:47

2019年08月26日   冬は必ず春となる

冬来たりなば春遠からじという言葉が、イギリスの詩人シェリーの西風の寄せる歌の一節にあります。この言葉の意味は、苦しみのどん底、逆境のどん底にあっても希望を失うなとと言うことです。
私たち凡人は,病気になったら、病気のことしか考えられず、失敗したら、失敗したことに振りまわされ、愛が憎しみに変わったら憎悪の他はなにも見えなくなったり、心が重く沈み、よどんでします。ちょっと目を上げてごらん、ちょっと高いところからのぼってごらん、ちょっと角度度を変えて違う方向から見てごらん。心を静めて耳を澄ましてごらん。近づく春の足音が聞こえるよ,出口はいっぱいあるよ。失敗は成功のもと、
人生、希望をもつということです。


Posted by 住職日記 at 07:20

2019年08月25日   人々の迷いには限りがない

 生きるとは迷いの連続である。A案とB案があって、どちらを選ぶかはその時の決断をしなければいけない。
 若し,A案を選んで、うまくいかなければ、後悔する。だけどそれは、次の時の教訓として学ぶことになる。若しB案を選んで、うまくいけば、有頂天となる。此も人生の最高を味わうことが出来る。これには、神仏でも、わかるものではない。だから神仏に祈り、うまくいくようにお守りを買い求めて、運を天にまかせる。人事を尽くして天にまかせるということわざがある。いわゆる努力する事で、迷いが消える。
迷いことも人生の修行である。


Posted by 住職日記 at 01:02

2019年08月24日   一善小行とは

一善小行とは、わずかでも修行を積むことで、よりよい人生を豊かにする実践修行を意味する言葉です。
実は、皆さんがお寺やお墓にお参りをすることや、自宅の仏壇にお参りするという行いの中には、五つ修行が存在しており、また同時にその修行を実践していることになります。

一、浄水(じょうすい)。清らかなお水を供えることで、自分も相手もその心が洗われ、綺麗になる布施行である。

二、仏花(ぶっか)。仏様にお供えするお花はとても美しい。その美しい花を見ると心がなごみ、自然に落ち着くことができます。優しいその姿で心静かに耐え忍ぶという柔和忍辱(にゅうわにんにく)の心を表す、忍辱の行である。

三、お香。香の煙のように、仏の慈悲を広く人々に行きわたらせる様。また、お線香が最後まで燃焼するように、一生懸命努力するという精進の行である。

四、お供物。仏様に私達と同じ食べ物をお供えします。仏様と自分が一つの命で繋がっていることを知ることで、心を鎮める禅定(ぜんじょう)の行である。

五、燈燭(とうしょく)。ともしびは仏様の慈悲の光、智慧の光を表し、悩みや煩悩の闇をこの光によって滅する、智慧の行であります。

私達のお参りをするという行いの中にも、たくさんの教えが示されています。その意味を知ることで、仏様の教えの深さを感じることができるのです。
身近なところにある小さな修行こそ、気付けば大きな徳となっているのです。
これからも、一善小行に励んでいきましょう


Posted by 住職日記 at 07:20

2019年08月23日   今年の佛教会の托鉢

今年の佛教会の托鉢17日から5日間、終わりました。
私の宗派では、8月三日より、信者さんの墓参り、棚経ミリ(信者さん宅のお参り、施餓鬼法要そして、托鉢と8月を半分以上使って行事です。托鉢では、他宗との合同の行事です。浄土真宗さんの信者さんの訪問は心待ちにされています。ほんとありがたい行事です。
五百軒近くを歩くのは大変ですが、それだけありがたい行事です。皆さんの息災を改めて感じる事ができます。
私たち僧侶は、人々の安穏を祈る為に、お経を唱え、歩くことだと考えて、毎年、実践しています。
その夏も終わりに近づいて,残り半年の健康をお祈りします。




Posted by 住職日記 at 08:07

2019年08月20日   恩を知るはこれ大悲のもと

 最近、恩と言う言葉は、死後になっているようです。自分が,努力して、,いい会社に入り,豊かな人生を送る。これが常識にされてきている。
 本来、自分は,父母の恩があって,生まれ生かされている。また、就職も自分の努力はもちろんのこと,まわりの恩があって、就職していることに気が付かない。なんか悲しいです。
 私は、父母のご縁で産まれ,まわりの人の縁で、育てられ、家を守り、そして,子孫を作り、まわりの人に世話されて、死に帰り、仏に生まれ変わる。すべてのご恩で、豊かに暮らしていることを感謝して欲しい。
 ところが、よこしまな考えで、ねたみ、他人を怨み、他人を傷つけ、殺すと言う行為を犯してしまう。
 自分の悪い行いを、他人が戒めているのに逆恨みをする。怒られることにきらう。これでは、世の中、よくならない。
人が幸せになるとは、悪を戒め、よいことを積極的に行えば、穏やかに暮らせる。此こそ延命する事ができる。
生きとし生けるものすべて仏性をもっている。だから幸せになれるのである。
仏心とは他人を思いやる慈悲の心です。恩を感じることは出来れば、争いごとはなくなり、人として生きられるのではないだろうか。


Posted by 住職日記 at 05:24

2019年08月18日   怒った人々に対して怒らない

怒った人に対して怒り返す人は、悪をなす事になります。怒った人々に対して怒らないならば、勝ち難き戦いにも勝つことになるからである。
相手が喧嘩をふっかけてきたら、誰だって黙ってはいられない。黙っていたら、怒鳴られぱなしで、自分が悪いことを認めてしまうことになる。
釈迦は、怒るひとに対して、怒り返したら、それは悪い事になると説かれている。黙って受け止めれば、負けるはずの戦いにさえ勝つことになる。更に瞋恚(しんに)という言葉は三毒の一つで「怒る」と言う行為で有ります。
 一回怒ると寿命が一日縮まる。一回笑うと一日寿命が延びる
怒ることは身体にとってよくないです。
一時的に負けたようですけど、長い目で見ると、負けてとはならない。むしろ,その時は負けたようでいても、大局的には勝っている場合が多いです。



Posted by 住職日記 at 02:35

2019年08月11日   酷暑過ぎる

毎日、熱すぎる。なぜこんなに修行しなければいけないのか。酷暑過ぎる。何も悪い事してないのに、私たち、生きているものを苦しめるのか。生きていくのがつらい。ある方は早く死にたいと言う。だけど死ぬ方法がわからない。
でも生きなければならない。生きて生き抜くことが大切である。生きていれば、楽は見つかる。苦しいばかりではない。楽しいこともいっぱいある。死んでしまえば、おいしいものが食べられなくなる。したいことが出来なくなる。つまらない人生である。
暑くても生きなくてはいけない。そうしないと先祖様に申し訳ない。先祖様は、縁を作り、そして人として成長させてくれたのだから、感謝すべきである。生きて行こうじゃありませんか。
どんなに暑くても生きるのだ、きっと安らぐ場面が出てくるはずだ。



Posted by 住職日記 at 14:33

2019年08月07日   今当山では墓参りの最中です

今,暑いさなか、お墓参りをしていただいています。ほんとにご苦労様です。普通だったら、エアコンの聞いた家の中で、過ごすのですが、ご先祖様のために、お墓参りをする事ことが、大変尊い事です。
此には、先祖様から語り継がれてきたことがあると思います。仏様に手を合わしにいけば、必ず守ってくださいます。良いことがあります。幸せになることが出来ます。などなど、いろんな思いがあるのだと信じたい。
私も、お墓の前で、お経を称えていると、背中に涼しい風が当たります。これこそ、仏様の御利益ではないかと信じます。
百八つの念珠には、仏様と人々百七人がつながっていることで、幸せな人生を送れるのだと信じています。これが、坊さんの生き方と思います、


Posted by 住職日記 at 13:57