私たちには、たくさんの欲望を持っています。その欲望をみたすことができなかったら、悔いを残すといいます。
悔いのない人生とは、欲をたくさん持たないことです。心静かに
いきることがことが目標です。所詮、手に入れた欲望は、泡となって消えてむなしさが残るだけです。
悔いのない人生とは、欲をたくさん持たないことです。心静かに
いきることがことが目標です。所詮、手に入れた欲望は、泡となって消えてむなしさが残るだけです。
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10:10
私という存在は一体どこから来たのでしょう。
最近、当山には、お墓を探しに来られます。実は、当山は、区の共同墓地があります。そんな関係で、都会からルーツ探しに来られます。設置時期は、おそらく江戸時代からあるのではないかと思われます。
今、大河ドラマで明智光秀をやっています。明智は、3日天下で、豊臣秀吉に滅ぼされましたが、ちゃんとこの世に存在していたのです。
わたしも、当山で生まれ、今61歳を迎えています。長生きしています。私のルーツは、近江八幡の加茂町の在所と聞き伝えられています。
お墓も、近江八幡の蓮光寺問お寺にに残されていますが、住職してからしか、年に一度しかお参りすることがありません。だって私の祖父が当山の墓地に眠っていますので、行くことがないのです。
木村という姓を名乗って、高島市安曇川が生まれ故郷になるからです。
私の祖父が、近江八幡から守山のお寺に弟子入りして、そして成人して、縁あって安曇川の当山に入寺して、住職となられ、結婚して、3代目をとなりました。全くもって不思議なことです。
若い頃はお寺を継ぐのがいやでしたが、大学を修行して、希望の職に就けずに、お寺で暮らしていたら、いつの間にか、住職になっているではありませんか。
不思議です。
今の若い人々を見ていますと。今日を無事に生きていたらよいという考えで、謳歌しているふうに見えています。家を継ぐとかというより、より豊かに暮らすことができればという感じでくらしているようです。
この世に生まれてきたのは、まさにご先祖様のおかげなのです。先祖様がいない人は、この地球では無いと思います。
先祖様=仏様を敬うというのは、大切なことです。日本では、年4回お墓参りの習慣が伝えられています。お正月、春と秋の彼岸、夏のお盆です。
今日こうして生きられているのは、ご先祖様のおかげであり、希望や願い事を叶えていただけるのです。お墓に参るのに、水、お花、線香をお参りするのが当たり前になっています。
お花は、他人を慈しむ心です、線香が身が焦がすように努力する心です。ローソクは、生きていくのに智慧を見いだして、生きて生きなさいという三種の神器を持ち合わす為にもっていくのです。
生きるために、ご先祖様は見守っているのです。
だからこそ、ご先祖様を大切にしないと、よりよい生き方ができないのです。
最近、当山には、お墓を探しに来られます。実は、当山は、区の共同墓地があります。そんな関係で、都会からルーツ探しに来られます。設置時期は、おそらく江戸時代からあるのではないかと思われます。
今、大河ドラマで明智光秀をやっています。明智は、3日天下で、豊臣秀吉に滅ぼされましたが、ちゃんとこの世に存在していたのです。
わたしも、当山で生まれ、今61歳を迎えています。長生きしています。私のルーツは、近江八幡の加茂町の在所と聞き伝えられています。
お墓も、近江八幡の蓮光寺問お寺にに残されていますが、住職してからしか、年に一度しかお参りすることがありません。だって私の祖父が当山の墓地に眠っていますので、行くことがないのです。
木村という姓を名乗って、高島市安曇川が生まれ故郷になるからです。
私の祖父が、近江八幡から守山のお寺に弟子入りして、そして成人して、縁あって安曇川の当山に入寺して、住職となられ、結婚して、3代目をとなりました。全くもって不思議なことです。
若い頃はお寺を継ぐのがいやでしたが、大学を修行して、希望の職に就けずに、お寺で暮らしていたら、いつの間にか、住職になっているではありませんか。
不思議です。
今の若い人々を見ていますと。今日を無事に生きていたらよいという考えで、謳歌しているふうに見えています。家を継ぐとかというより、より豊かに暮らすことができればという感じでくらしているようです。
この世に生まれてきたのは、まさにご先祖様のおかげなのです。先祖様がいない人は、この地球では無いと思います。
先祖様=仏様を敬うというのは、大切なことです。日本では、年4回お墓参りの習慣が伝えられています。お正月、春と秋の彼岸、夏のお盆です。
今日こうして生きられているのは、ご先祖様のおかげであり、希望や願い事を叶えていただけるのです。お墓に参るのに、水、お花、線香をお参りするのが当たり前になっています。
お花は、他人を慈しむ心です、線香が身が焦がすように努力する心です。ローソクは、生きていくのに智慧を見いだして、生きて生きなさいという三種の神器を持ち合わす為にもっていくのです。
生きるために、ご先祖様は見守っているのです。
だからこそ、ご先祖様を大切にしないと、よりよい生き方ができないのです。
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09:43
ある日のこと、お釈迦様の使いで、おじいさんが信者さんの家に行き、懇ろに先祖様ののために、お経をあげたあと、その家の奥さんに、おなかいっぱいごちそうになったのです。
あなたは、お釈迦さんの代わりに来られたので、説教をしてほしいと懇願されましたので、いたしかたなく、するのですが、仏の教えなどなにも学んで来られなかったので話ができずに,奥さんの目をつむって、お話の始まるのを待っていたのでした。
困って困ってしまったのは、そのおじいさんです。自分は、毎日の食事ののため、仏門に入ったのですから、勉強して来なかったので、説教ができません。
おじいさんはどうしたものか思案のあげく、奥さんが目をつむっているのを幸いに、こそこそ逃げ出したのです。
さて、次の日、奥さんがお釈迦様のところへ訪ねてこられました。その奥さんの声を聞いて、「これは大変です。きっと昨日の文句を言いに来たに違いない。」と陰に隠れてしまいました。
いくら探しても本人がいないので、お釈迦様に「私は昨日ほどありがたい説教を聞いたことがありません。私は昨日のお坊さまのおしえが、今までの自分の間違いを悟りました。」いつもように目を閉じていると、いくら立ってもお話が始まりません。どうしてだろうと考えておりましたら、「おまえはいつも話を聞くばかりで自分で何一つ実行しようとはしない。仏の教えは自分の身体で読まなければだめだとという声が聞こえて参りました。ハッとしてきづくと、あのお坊様の姿がどこにも見当たりません。なんという尊いお方だろうと、今日はそのお礼を申し上げにまいったのでございます。お会いできなくて残念ですが、よろしくお伝えください
これを聞いたお釈迦さまは、にっこりとほほえまれ、そなたの悟った真理は、他の者をも救うであろうと答えられました。
物陰からこっそり見ていたおじいさんは涙を流して自分のいやしい心を反省したそうです。
それからは、命がけで仏の教えを学び、お釈迦様の弟子の一人になられたのです。
あなたは、お釈迦さんの代わりに来られたので、説教をしてほしいと懇願されましたので、いたしかたなく、するのですが、仏の教えなどなにも学んで来られなかったので話ができずに,奥さんの目をつむって、お話の始まるのを待っていたのでした。
困って困ってしまったのは、そのおじいさんです。自分は、毎日の食事ののため、仏門に入ったのですから、勉強して来なかったので、説教ができません。
おじいさんはどうしたものか思案のあげく、奥さんが目をつむっているのを幸いに、こそこそ逃げ出したのです。
さて、次の日、奥さんがお釈迦様のところへ訪ねてこられました。その奥さんの声を聞いて、「これは大変です。きっと昨日の文句を言いに来たに違いない。」と陰に隠れてしまいました。
いくら探しても本人がいないので、お釈迦様に「私は昨日ほどありがたい説教を聞いたことがありません。私は昨日のお坊さまのおしえが、今までの自分の間違いを悟りました。」いつもように目を閉じていると、いくら立ってもお話が始まりません。どうしてだろうと考えておりましたら、「おまえはいつも話を聞くばかりで自分で何一つ実行しようとはしない。仏の教えは自分の身体で読まなければだめだとという声が聞こえて参りました。ハッとしてきづくと、あのお坊様の姿がどこにも見当たりません。なんという尊いお方だろうと、今日はそのお礼を申し上げにまいったのでございます。お会いできなくて残念ですが、よろしくお伝えください
これを聞いたお釈迦さまは、にっこりとほほえまれ、そなたの悟った真理は、他の者をも救うであろうと答えられました。
物陰からこっそり見ていたおじいさんは涙を流して自分のいやしい心を反省したそうです。
それからは、命がけで仏の教えを学び、お釈迦様の弟子の一人になられたのです。
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08:51
人は、皆にとりつかれている。
裸で父母の縁で生まれてきて、成長するにつれて、かわいい服、学校に入れば、服や鞄、靴などを手に入れます。少しづつ、物への執着がついてきます。そこから生きる上において、生きていくための欲も身について行きます。
そうすると、家のなかは、物にいっぱいになって、棄てることがもったいない心が芽生えてきます。これが苦しみを生む縁となります。
いま、断捨離という言葉が出てきました。
断捨離というのは心をすっきりさせて、気持ちを入れ替えて生き直そうというところから、出てきたのです。
執着するから、苦しみに耐えきれなくなって、死を選ぶ人が出てきました。ほんと、もったいないことです。
私は、今、家族とこの先何年生きられるかわかりませんが、人の為に生きていくつもりです。
人の喜ぶ顔が、私の財産です。
裸で父母の縁で生まれてきて、成長するにつれて、かわいい服、学校に入れば、服や鞄、靴などを手に入れます。少しづつ、物への執着がついてきます。そこから生きる上において、生きていくための欲も身について行きます。
そうすると、家のなかは、物にいっぱいになって、棄てることがもったいない心が芽生えてきます。これが苦しみを生む縁となります。
いま、断捨離という言葉が出てきました。
断捨離というのは心をすっきりさせて、気持ちを入れ替えて生き直そうというところから、出てきたのです。
執着するから、苦しみに耐えきれなくなって、死を選ぶ人が出てきました。ほんと、もったいないことです。
私は、今、家族とこの先何年生きられるかわかりませんが、人の為に生きていくつもりです。
人の喜ぶ顔が、私の財産です。
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09:22
人は、頑張って努力しているが、なかなか報われないことが多いだろう。
努力して因(タネ)をまいても花が咲かない。私はそう思って、若い世代を暮らしてきました。自分には才能がないのだと思うことが多かった。
でも、いくらタネをまいても、縁がなかったら、花が咲くはずがない。この道理は、仏教の教えであり、お釈迦様が説かれたことなのである。これが真実なのです。
このことに気づいたのは、61歳ときであった。花が咲かないので、たくさんのお金を使った。借金もした。そんな中で、短期を起こさず、今を生きています。
たとえば、田んぼのお米はどうやってできるのだろうか考えたことがありますか。
お米は、籾タネが必要なのです。籾タネを耕した田んぼにまきます。すると籾タネは、日の光、水、土、ちょうど良い温度,肥料、で芽を出し、お米になります。ということは一年をかけなければ、できないのです。だからタネをまいて、すぐに花が咲かないです。ここに縁という物がなければできないのです。
人生には、出会うべく先生、上司に出会うことで、その人の人生が変わるものです
努力して因(タネ)をまいても花が咲かない。私はそう思って、若い世代を暮らしてきました。自分には才能がないのだと思うことが多かった。
でも、いくらタネをまいても、縁がなかったら、花が咲くはずがない。この道理は、仏教の教えであり、お釈迦様が説かれたことなのである。これが真実なのです。
このことに気づいたのは、61歳ときであった。花が咲かないので、たくさんのお金を使った。借金もした。そんな中で、短期を起こさず、今を生きています。
たとえば、田んぼのお米はどうやってできるのだろうか考えたことがありますか。
お米は、籾タネが必要なのです。籾タネを耕した田んぼにまきます。すると籾タネは、日の光、水、土、ちょうど良い温度,肥料、で芽を出し、お米になります。ということは一年をかけなければ、できないのです。だからタネをまいて、すぐに花が咲かないです。ここに縁という物がなければできないのです。
人生には、出会うべく先生、上司に出会うことで、その人の人生が変わるものです
Posted by 住職日記 at
12:34
しばらくの間、夏日で汗だくで過ごしていたのですが、ようやく梅雨に入ったような気がします。
人に会うのが怖いです。自分が感染して、会う人に移すのではないかと、マスクだけは着用しています。
お寺は、人たちの安らぐ場所であり、生き直すところと承知しているのですが、不安はぬぐいきれません。
ただ、仏様の御利益を信じて、線香の香りで、悪い物をはき出し、仏様の良い香りを身体いっぱいに吸い込んでいただき、健康な身体になってもらえることをお伝えしています。
私も、仏様の身になって、人々の心に寄り添えるよう毎日精進しています。
人に会うのが怖いです。自分が感染して、会う人に移すのではないかと、マスクだけは着用しています。
お寺は、人たちの安らぐ場所であり、生き直すところと承知しているのですが、不安はぬぐいきれません。
ただ、仏様の御利益を信じて、線香の香りで、悪い物をはき出し、仏様の良い香りを身体いっぱいに吸い込んでいただき、健康な身体になってもらえることをお伝えしています。
私も、仏様の身になって、人々の心に寄り添えるよう毎日精進しています。
Posted by 住職日記 at
07:57
これはお釈迦様のお話です。
ある日お釈迦様とお弟子さんが托鉢(たくはつ)の途中、畑仕事をする村人が「わたしは大地を耕して作物を作っているが、あなたは何か作っているのか?」と尋ねてきました。
お釈迦様はその村人に「我は心を耕す者なり。私達もあなたと同じ事をしているのだが、相手にしているのは人の心である」と答えられました。
お釈迦様は人の心を耕すということは、信仰を種とし、その種を育てる智慧を持ち、日々の修行に精進することであり、それがあらゆる苦難を除いて安穏なる実りをもたらすことになると説かれておられます。
作物を育てるには、硬い大地を一生懸命耕して土を柔らかくし、水と栄養分を欠かすことなく与えて、たゆまぬ努力を重ねることで、初めて実りの時を迎えることができるのです。
それと同じように私達の心も柔軟な心にしていかなくてはいけません。
ガチガチの心では信仰の種は芽を出すことはできません。
仏様の教えは皆さんの心の大地に降りそそぐ太陽の光であり、水や栄養分なのです。
そして、法華経を読んだり聞いたりすることも、仏様の徳を全身であびることになるのです。
さらにその徳は自分だけがいただくのではなく、ご先祖様にも同じように届くのです。
いつも自分の心を見つめ直して耕し肥やし、実りある豊かな心で生活できるように努力してまいりましょう。
ある日お釈迦様とお弟子さんが托鉢(たくはつ)の途中、畑仕事をする村人が「わたしは大地を耕して作物を作っているが、あなたは何か作っているのか?」と尋ねてきました。
お釈迦様はその村人に「我は心を耕す者なり。私達もあなたと同じ事をしているのだが、相手にしているのは人の心である」と答えられました。
お釈迦様は人の心を耕すということは、信仰を種とし、その種を育てる智慧を持ち、日々の修行に精進することであり、それがあらゆる苦難を除いて安穏なる実りをもたらすことになると説かれておられます。
作物を育てるには、硬い大地を一生懸命耕して土を柔らかくし、水と栄養分を欠かすことなく与えて、たゆまぬ努力を重ねることで、初めて実りの時を迎えることができるのです。
それと同じように私達の心も柔軟な心にしていかなくてはいけません。
ガチガチの心では信仰の種は芽を出すことはできません。
仏様の教えは皆さんの心の大地に降りそそぐ太陽の光であり、水や栄養分なのです。
そして、法華経を読んだり聞いたりすることも、仏様の徳を全身であびることになるのです。
さらにその徳は自分だけがいただくのではなく、ご先祖様にも同じように届くのです。
いつも自分の心を見つめ直して耕し肥やし、実りある豊かな心で生活できるように努力してまいりましょう。
Posted by 住職日記 at
12:05