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Posted by 滋賀咲くブログ at

2016年04月30日   生きがいのない人のために

一人の女子学生が言います。
先生、どうも毎日生きているのがつまらなくて仕方がないんです。授業やら、宿題やら、試験やら、レッスンやらで結構忙しくて一日が過ぎるのですが、一生のうちで一番楽しい青春時代だと他人が言うのに、私には毎日の生活が一つも楽しくなく、何か空しくて、これでいいのかと考え込んでしまう。それと引き替えに、他人のやることなすことみな楽しそうに見えてうらやましく思い、時には無性に腹ただしくなり、自分が嫌になり、どうしたらいきがいのある生活ができるかを教えてください。そのとき先生はこう答えた。
そうし悩みや不安があるのは別に君だけでない。誰しも人間である限り、一生つきまとうものであり、他人もみな同じように考えているのです。だから、そうくよくよ心配しないようにといわれた。
それでは私はどうしたらいいのですかと重ねて問いかけた。
正直のところ、彼女の悩みや不安を解消させる決定的な妙案がない。そこで逆に今まで真剣に苦しみ、やりがいのある仕事に取り組んだことがあるのかと問い返した。すると別にないとという。感動や感激したがあるかとたずねるとそれもないという。
 彼女にとっては、生きる喜びや救いが何もしなくても、自然に授けられるものだと思って生きてきたらしい。
それならば、無理に苦しむことはないが、まず自分の気の向くような好きな仕事をしてみてください。あまりその結果や効果を期待せずにただ、好きで好きでたまらないものを手がけて見ることです。その中から何かつかめるようになったら、しめたもの。それでもむなしさが残るようなら、その時もう一度相談に来なさい。
 私たちの周囲には、やるべき仕事がいくらでもころがっているのに見て見ぬ振りをして果報は寝て待てとばかりです。口をぽかんと開けてただ眺めている人が多いのです。それでは人生面白くない。むなしいと嘆き悲しんでいても始まらない。
 そこでむなしさを吹き飛ばし、人生の充実感を味わうことである。
これだとと思う仕事に自分を賭け、そのまっただなかに飛び込んで力頑張っていただきたい。
仕事は楽しみならば人生の楽園です。仕事が義務ならば人生は地獄です。生きがいのある生活を営むには、自分の本当に好きなものをいち早くつかみ取ることが大切なのであります。



Posted by 住職日記 at 08:25

2016年04月28日   念仏行を行います

来る6月19日日曜日に当山玉泉寺を道場にして、一日中、念仏の行を行います。この行事を「別時念仏会」といいます。念仏は、常時、毎日を念仏を称えて、こころの安心を求め、生きている事の感謝をもって、よのため、人のために実践することが自分の幸せにつながるとされています。ところが、毎日というと、生きるために仕事をして生きなければなりません。そんな時に念仏は称えられません。そこで、開祖真盛上人は、別の日に、念仏をとなえ、こころを平安を願われた事から、別時念仏会を開かれたそうです。
 高島では、18ヵ寺がまとまり、年1回だけ、18ヵ寺のどこかのお寺を会場にしていまして、今年は、玉泉寺で行うことになりました。
 会場となるお寺に、多くの信者が集まり、八時間だけでも念仏を称え、こころの平安を求め、地域の人々が安全に暮せられるように祈る行事です。
 もしよろしければ、念仏を称えて、自分幸せ、他人の幸せを祈りませんか。参加費は五百円です。参加しようと希望される方は連絡してください。
電話0740-32-0791、携帯090-3708-7206  木村までお願いします



Posted by 住職日記 at 09:18

2016年04月27日   今日は、曇天出あるけれども、こころは弾む

人々に語り続けることは、大変ありがたい。ようやく私が、しゃべりやすくなってきました。しゃべれば、共感していただくことができれば、うれしくなります。そうして、その人がすがすがしいこころになっていただくと二重の喜びになります。これが御利益の三倍になるという。
もっとみなが幸せを感じてもらえるようにおしゃべりしていきたいです。


Posted by 住職日記 at 13:01

2016年04月26日   善悪の心

 この娑婆世界は、善悪の心で成り立っています。なぜなら、人の行動は、よいことをするか、悪いことをするかのどちらかで生きています。悪いことは、犯罪を起こし、他人に迷惑をかける人が多すぎます。今やマスコミのの話題となり、あとを絶たない。どうしてなくならないのか疑問に思う。
 私の子どもの時代に、母親から、他人に迷惑をあけないようにとしつけられた者です。だけども、人が見ていなければ、よいという風潮があり、他人に迷惑することがあとを絶たない。
 この世にそんな心が働くのは不思議である。
 佛教には、人の喜ぶことをすれば、必ず自分の幸せがやってくると説いているのに、必ずや実践しない。とにかく、人に迷惑をかけてはいけないのである。これが幸福の条件です。
 私たちは、決して人に迷惑をかけないように生きていなければ、説法はできないのである。自分を律した生き方をしないければいけないのである。


Posted by 住職日記 at 01:31

2016年04月24日   先日、九十九歳のかたの通夜に参列する

九十九歳の女性のかたの通夜に参列しました。このかたは、私が福祉の仕事をしているときに、出会いました高齢女性の最後のお別れをしました。会話も何度か交わした思い出のある方です。
 その方の印象は、笑顔で、心穏やかで接していただいたことです。物わかりがよくて、私の言うことなどよく理解でき、すぐに行動をされたことが印象深かった。
 人は誰しも、年を取ります。そして、苦労を重ねます。その苦労していく中で、嫌なことが多かったと思います。その嫌なことを耐え忍び生きてこられたからこそ、人の言うことを素直になれるのだと信じています。ほんとに、かわいい年配者でした。人生100年生きれたことは、決して幸せな暮らしではなかったとも思います。多くの苦しみを受けて、常に振り返り、素直に改めるから、100年の寿命が得られたのでしょう。
 私は思うのです。苦労して耐え忍ぶから、寿命を長く保てるのでしょうか。決して欲望のままでは、寿命が保つことができないと、多くの人々の暮らしを見て感じることころであります。やはりお釈迦様の説いた少欲知足の言葉が生きるのではないかと確信しています。


Posted by 住職日記 at 06:52

2016年04月22日   当山に参詣に来られて

正午過ぎ、朱印に来られて、たくさんの仏像に出会っていただきました。こんなにたくさんあるところはここだけと褒めていただきました。そして、仏の教えを聞いていただき、心が洗われたと喜んでいただいたことで、二度私自身、うれしく思い、多くを語りかけて、不安な気持ちを払拭されました。
お寺は、悩みを解消して、元気になってもらうための道場です。明日から土曜日、日曜日です。空いていますので、参詣に来られませんか。


Posted by 住職日記 at 18:22

2016年04月21日   お金に使われている人に

子供らに、君たち、命の次ぎに大切なものはなんだと思う。と問いかけたとき、「お金」と言葉が帰ってきた。子ども心にもお金は絶大で、お金を出せば、なんでも欲しいものが買えて、好きな事ができ、生活の不安を解消する。親も子もおしなべてお金に執着するのは無理がない。
 親は我が子を小学生のころから塾に通わせ、高い月謝を払って、過酷な入試を突破し、一流の大学に入学させて、ひとえに有利な条件で、一流の会社に入って、高い収入を得させる。誰どもが、人より一円でも多い収入を得て生活を安定させ、豊かな毎日を過ごさせたいと願っています。
 昔から、一円に笑うものは一円に泣くという言葉があるが、お金の尊さをいやというほど、身にしみると感じた多くいるであろう。お金は、たしかに生きるために必要で、それはなくしては毎日の衣装住にも事欠き、生活することができない。しかし、お金は生きるための必要条件であっても、絶対的なものではない。必要以上にお金をもっているからといってそれを見せびらかせる分けがなく、誇れるどころかほこりがたまって死蔵されるのが落ちである。
 いくらお金や名誉や権力を獲得し、立派な職業に就こうとも、それが自分や自分の家族が食うため、生きるためのものであったなら、誰も本人を尊敬しないし、本人自身も肩身のせまい思いをするだけであります。所詮、そうしたものはあの世にもっていけるわけがなく、かえって財産争いなど、あとくされの種になってしまうことになります。そかんがえて見ると、必要なお金は、無駄なく大切に使おうと自戒して生きてくことであります。
 「雪山を化して黄金となし、さらにそれを二倍にしても、よく一人の欲を満たす事を得ず、かく知りて、人々よ正しくおこなえ。」と相応部経典にあるように、お金は人間が生きるために不可欠ではあるが、それのみでよりよく生きられるわけではない。私たちはお金のためにいきるのではなく、生きるためにお金を使うので、もっと人間らしく生きるためにはお金の奴隷になるのではない。それを有効に使う主人公になるべきである。そうでなければ、人間はなんのためにこの世に生まれてきたのかわからない事になるかを考えてほしい。


Posted by 住職日記 at 09:19

2016年04月20日   人生には節目がある

人生には節目がある。昔から、男の人は42歳、女の人は33歳厄年があります。厄年を迎えられた人々は、厄除けに神社や寺に祈祷にい行きます。厄年は人生の折り返し地点です。その折り返しを気づかずに生きていくのは、災いをあるという、事から人々は、気張って神社等にお参りに行きます。私も行きました。だって、災いはできるだけ合わないようにしたいからです。
 人々は、生き延びたいという考えをもっています。そのために努力して、神社や寺参りをします。
 玉泉寺でも、人々が幸せに暮らせるように応援したいと考えます。お寺は、人々の悩みを受け入れて、すっきりしていただいてこそ、生き延びられるのです。
 どうぞ、気軽にお参りください。お待ちしています。
交通安全のステーカー、幸せの念珠、お守りを用意しています。
のぼり旗、庫裏の瓦の奉納を考えています。


Posted by 住職日記 at 07:57

2016年04月19日   手のつけられぬ子を持つ人に

 親にとっては、自分の子にいかにろくでなしであってもかわいいもので、その親の気持ちも知らずに子どもは親に甘え、放題に甘え、いざ自分ではどうにもならないハメに陥ると、親に泣き込むようである。
 親は親で、そうした不甲斐ない子どもであればあるほど、不憫を思い、より以上の愛情を注ぐ。
 犯罪を犯した子どもや虚弱体質の子どもを持つの親のひたすらに子を思う姿を垣間見るにつけ、親子の情の深きに改めてえりを正され、その心痛のほどが察せられる。
 俳句で有名な良寛も、甥に手こずった話があります。良寛は、日本海に面した越後の出雲崎の出身であるが、17年禅堂で修行して、のちに故郷に帰り。国上山のほとりの五合庵に住まいを構えていた。
その頃、出雲崎の良寛の実家に甥に当たる馬の助という青年がいて、両親の夫婦も手をつけられないくらいの放蕩者で、思いあまって良寛にどうか実家にきていただき、意見をしてくれと懇願した。
 良寛は、実家にきても、別に馬の助をいさめるでもなし、毎日ぶらぶらし、縁先に出ては、シラミとりばかりしていた。その夫婦は役に絶たない良寛の態度に業を煮やし、良寛も居づらくなって、国上山にかえることにした。とうとう出立の朝、馬の助に五合庵まで送ってもらうことにし、良寛は玄関先で馬の助に、ちょっとすまぬが、わしの草鞋を結んでくだされ。と声をかけた。馬の助はおとなしく良寛の足元にしゃがみ、草鞋のひもを結んでやっていると、なにやら温かいものが自分の首筋に落ちてくる。なんだろうといぶかしそうに振り仰いで見れば、それは良寛の眼からしたたり落ちた一滴の涙であった。これを知った馬の助はハッとしたが、何食わぬ顔で良寛は先に立ち、国上山へ急いだ。その道すがら良寛は、馬の助に追いつき、肩をならべて、お前も淋しいのだろうな。わしもお前の年頃、淋しくてやりきれなかったんだよ。どうだ、歌でも作って見る気はないか。わしがなおしてあげるから。とぽつりと言った。それからというものは馬の助は時々良寛のところへ遊びに来るようになり、すっかり人が変わってしまったという。
 世の中には、真人間に立ち返るきっかけがつかめず、一生涯を自堕落な生活で終始しまう人がいる。
 一切の衆生、病むを持ってのゆえに、われ病むと維摩経に説かれている。とうてい人を救うことができるものではないが、仏への信心はあれば、救われる事は真実である。


Posted by 住職日記 at 08:28

2016年04月18日   人の真似ばかりしている人に

友人が、スマホを買ったから私の買う、となりの家の子どもにテレビを買ってやったから我が家でもなどと競い合い、なけなしの金をはたいて無理してまで人の真似をするものをよく見かけるが、そうしなければ、肩身がせまく、つきあいできないと勘違いをしている人が多すぎます。
 こうした競争心や虚栄心のために流行を追い、人真似をしなければ安心できないのは、自らの心が貧しい証拠で、その劣等感を隠し、取りつくろうべく、一生涯人に追従するにもむなしい。
人は、長いものにまかれろということわざがある。権威や流行に屈従することは楽であります。人々は共同生活していく中では、主体的に生きていくことは、ともすると社会の秩序や調和を乱すと考えられてきた。
 グループでレストランに入って、注文するときに、お互いに顔を見合わせて、同じものを注文してしまいます。
 釈迦が晩年、毘舎離の郊外で病に倒れ、やっとのこと回復して、弟子の阿難が師の姿を仰ぎ見て、師が病で倒れたときには、私の総身か力が抜け、四方が暗くなってしまいました。しかし師があとあとのことを何も語らずに逝くはずがないと思っていささかも安堵いたしました。といった。
 すると釈迦は、阿難よ、お前は、私に何を期待している。私はいつも何も隠し立てせず、すべての教えを説いた。もし私が弟子達の指導者であるとか弟子達が私に頼っていると思っているならば、人生最後に当たって、何事かを語り残さなければならないが、いままで語ってきたことがすべてであるといい、されば阿難よ。汝はここに自らをともしびとし、自らのよりどころとして他人のよりどころにせず、教えをともしびとし、教えをよりどころとして、他をよりどころにせずして生きるがよいとさとされたとされています。


Posted by 住職日記 at 07:32