人生は、目標を定めて、そしてその目標を成就することだと考えます。しかしながら、生身の人間は、大方、途中で挫折してしまうことが多いのです。
例えば勉強のことでもそうですが、しっかりできて結果に満足したという時と、まあまあでやっぱり後悔したという時もあるでしょう。
当然そこはやる気次第です。
親が子供にやる気を出させようと、子供のほっぺたをたたいても、そこにやる気スイッチがつかないのです。その結果、子供のやる気は出なかったわけです。
自分がやる気になるかならないかは、人に促されることも大事ですが、やはり本人の自覚がないとつきません。
しかし、そこはまだ入り口であり、無事にスイッチを押すことができても、そこからは親も周りも見守ることしかできません。
後は本人がどれだけ努力をするか。何事も持続することによって物事は成就していく、つまり願いが叶うのです。
この話の中で、登場する子供は凡夫である私達であり、子供のためになんとかしてやりたいと想う親の姿は仏様の慈悲であります。
仏様はどうにかして、私達を導いて救おうと考えておられます。
仏様の教えを自分がどれだけ持ち続け、生活することができるか、信仰を持続することができるかが大事なのです。
人は何歳になっても勉強です。
学ぶことはたくさんあります。 色々な経験をすることも必要です。
そこに仏様の教えをプラスして、自分の目指すことが成就するように努力を惜しまない。
「やってやれないはずがない。やらずにできるはずがない。」
自分が納得いくところまでやる。それが成就に繋がるということです。
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02:40
寒かった冬も終わりが近づき、日中、汗ばむようになりました。皆様お変わりございませんか。
境内の桜の木のつぼみが薄ピンク色になってきました。
そして、朱印のお客様が来られるようになりました。わたしも、仏教の話をして、幸せについて語りかけています。
フランス人、名古屋の方、栗東のかた、金沢の方、岡山の方とあちらこちらからお参りいただいています。本堂を開けると、びっくりなさいます。
そして、数多くの仏様と対面して、説話をお話しさせていただいています。
お寺は、煩悩を少なくして、心清らかになって、生き直してもらえることだと思っています。
生きるというのは苦しいものです。その苦しみを乗り越えていただくために、仏様と出会い、そして心の糧にしてもらい、さらなる生きがいを作っていただくところなのです。
4月は、4日、5日、6日、7日と西教寺で法華千部法要を行いますので、留守にしますが、ご都合がよければ、お参りください。私が法要を進行しています。
境内の桜の木のつぼみが薄ピンク色になってきました。
そして、朱印のお客様が来られるようになりました。わたしも、仏教の話をして、幸せについて語りかけています。
フランス人、名古屋の方、栗東のかた、金沢の方、岡山の方とあちらこちらからお参りいただいています。本堂を開けると、びっくりなさいます。
そして、数多くの仏様と対面して、説話をお話しさせていただいています。
お寺は、煩悩を少なくして、心清らかになって、生き直してもらえることだと思っています。
生きるというのは苦しいものです。その苦しみを乗り越えていただくために、仏様と出会い、そして心の糧にしてもらい、さらなる生きがいを作っていただくところなのです。
4月は、4日、5日、6日、7日と西教寺で法華千部法要を行いますので、留守にしますが、ご都合がよければ、お参りください。私が法要を進行しています。
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15:54
お掃除などの奉仕活動を経験された方は、感じたことがあると思いますが、地域や周りのために何かをして、物事をやり遂げたり、成し遂げた時に、達成感とともに満足感というものが、込み上げてきたことがあると思います。
奉仕するとは、利他的なことで、自己の利益を求めず、他に仕えたり支えることであり、損得を離れて力を尽くすことです。
例えば、面倒で大変なことがあるとしましょう。そんな時こそ多少、自分を犠牲にしてでも、損得を考えないで自分から進んで引き受けて、一生懸命取り組んでみて下さい。 自分が尽力することで、力を貸してくれる人と繋がったり、自分の力が及ばないところを補ってくれる、様々な縁に出会うことができます。
奉仕をして、様々な縁に出会っていることに気付いた時、何か満たされた気持ちになり、他のためにしたことであっても、自分の喜びとなっているでしょう。 仏様は、慈しみの心を持って、人のために自らの力を注ぐことが大切であります。そして、その行いによっての見返りを求めない事です。まさに、慈悲の心であります。
人に喜ばれたり、感謝されたりすることは、後に自然と自分の財産となります。つまり、人に喜んでもらって、自分もそこにやりがいを感じる。それが奉仕するということなのです。
自分の力をもって、誰かのためになることをする。もっと言うなら、させてもらうという気持ちが持てれば、いつでもやりがいを感じることができるでしょう。 今、誰かがあなたの力を必要としているかもしれません。たくさんのやりがいを見つけることができるように、持てる力を存分に発揮して、奉仕の心で徳を積んでいきましょう。
4月5日から始まる法華千部会に、多くの方がお手伝いに来ていただきます。私は、進行役として奉仕させてもらいます。奉仕者全員に〈喜んでもらえるように接していこうと考えています。
奉仕するとは、利他的なことで、自己の利益を求めず、他に仕えたり支えることであり、損得を離れて力を尽くすことです。
例えば、面倒で大変なことがあるとしましょう。そんな時こそ多少、自分を犠牲にしてでも、損得を考えないで自分から進んで引き受けて、一生懸命取り組んでみて下さい。 自分が尽力することで、力を貸してくれる人と繋がったり、自分の力が及ばないところを補ってくれる、様々な縁に出会うことができます。
奉仕をして、様々な縁に出会っていることに気付いた時、何か満たされた気持ちになり、他のためにしたことであっても、自分の喜びとなっているでしょう。 仏様は、慈しみの心を持って、人のために自らの力を注ぐことが大切であります。そして、その行いによっての見返りを求めない事です。まさに、慈悲の心であります。
人に喜ばれたり、感謝されたりすることは、後に自然と自分の財産となります。つまり、人に喜んでもらって、自分もそこにやりがいを感じる。それが奉仕するということなのです。
自分の力をもって、誰かのためになることをする。もっと言うなら、させてもらうという気持ちが持てれば、いつでもやりがいを感じることができるでしょう。 今、誰かがあなたの力を必要としているかもしれません。たくさんのやりがいを見つけることができるように、持てる力を存分に発揮して、奉仕の心で徳を積んでいきましょう。
4月5日から始まる法華千部会に、多くの方がお手伝いに来ていただきます。私は、進行役として奉仕させてもらいます。奉仕者全員に〈喜んでもらえるように接していこうと考えています。
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09:45
「春分の日」は、「自然(しぜん)をたたえ、生物をいつくしむ」日として、「秋分の日」は、「祖先をうやまい、なくなった人々をしのぶ」日として、国民の祝日に定められていますが、「春分の日」と「秋分の日」は、お彼岸の中日(ちゅうにち)でもあります。
仏教では、ご先祖さまのいる世界<極楽(ごくらく)>を「彼岸(ひがん)」、いま私たちが生きているこの世界を「此岸(しがん)」といい、「彼岸」は、西に位置し、「此岸」は、東に位置するとされています。3月の春分の日と9月の秋分の日は、太陽が真東から昇り、真西に沈むので彼岸と此岸がもっとも通じやすい日になると考えられ、この時期に先祖供養をするようになりました。
仏教では、ご先祖さまのいる世界<極楽(ごくらく)>を「彼岸(ひがん)」、いま私たちが生きているこの世界を「此岸(しがん)」といい、「彼岸」は、西に位置し、「此岸」は、東に位置するとされています。3月の春分の日と9月の秋分の日は、太陽が真東から昇り、真西に沈むので彼岸と此岸がもっとも通じやすい日になると考えられ、この時期に先祖供養をするようになりました。
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11:16
朝から、良い天気になりました。早朝より、共同墓地のお墓参りで、訪れています。
大変、ありがたいことです。人は、先祖様を思うこころが、暮らしの幸せを感じるものです。どうか、お墓参りをして、心の安らぎを覚えましょう・
大変、ありがたいことです。人は、先祖様を思うこころが、暮らしの幸せを感じるものです。どうか、お墓参りをして、心の安らぎを覚えましょう・
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10:40
私は、お坊さんです。人々からお布施を頂いて、毎日を暮らしております。お坊さんの仕事は、葬式、年忌法要、人々の相談に乗って、安心を得てもらう為に、このよに生きているのです。だから、がつがつしたらいけないのです。
もう六十歳です。人生の半分以上、生かしていただいています。あとどんなけ生きられるかわかりません。今日一日、精一杯生きることです。いつも思うのです。今日も人々のお役に立つことができましたと感謝の気持ちが大切なことです。
お寺で暮らしていて、誰かが来てくれた。その人がお参りであったり、お墓参りであったり、幼子の散歩で石段を上がってきてもらったり、いろんな出会いに会うことが、ああ今日一日、お寺にいて良かったと思うことなのです。
私がこのよを全うするまでに、どれだけのであるかが、生きる喜びなのです。とにかく、笑顔で人々に言葉を交わすことが、私の喜びです。
もう六十歳です。人生の半分以上、生かしていただいています。あとどんなけ生きられるかわかりません。今日一日、精一杯生きることです。いつも思うのです。今日も人々のお役に立つことができましたと感謝の気持ちが大切なことです。
お寺で暮らしていて、誰かが来てくれた。その人がお参りであったり、お墓参りであったり、幼子の散歩で石段を上がってきてもらったり、いろんな出会いに会うことが、ああ今日一日、お寺にいて良かったと思うことなのです。
私がこのよを全うするまでに、どれだけのであるかが、生きる喜びなのです。とにかく、笑顔で人々に言葉を交わすことが、私の喜びです。
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09:03
本日、午後3時より、ねはん会を開催します。ねはん会とは、お釈迦様が涅槃の境地に入られる日なのです。お釈迦様は、八十歳で命を全うされるのです。お釈迦様は、弟子達に私は、もう寿命がきました。後は、お前たちに人々を救う道を説いてください。私は、これから、涅槃の世界におもむく。けれども、ねはんの世界から、見守っているので、祈りを捧げなさい。私はお前たちのそばにいるから、安心してください。然うしている間に、赤や靑、、黄色の雨が降ったことから、色のついただんごが、人々の頭の上にふったことから、だんごまきと言われています。これを持ち帰り、食べると無病息災と言われています。
良かったら、お参りください
。
良かったら、お参りください
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06:56
法華経の中に常不軽菩薩(じょうふきょうぼさつ)という仏様がおられます。
この方は修行の中で、出会う人全てに「私はあなたを敬い、決して軽んじたりはいたしません。なぜならあなたは菩薩行をして、仏になられる方だからです」と言って手を合わせ、拝んでおられました。
人々からは変わり者だと思われて、時には拝まれて怒りだす人もいました。
しかし、何を言われても丁寧に合掌礼拝をして「あなたは仏になられます」と同じ言葉を繰り返されました。
やがて、それが人々の心に伝わり、本当の修行者だと理解されるようになったのです。
これはいったいどういう事かと申しますと、人の心の中にある、仏に成る元である仏性を拝んでおられたのです。
仏様の救いというのは亡くなって、他の世界に行って救われるというのではなく、たくさんの苦しみがあるこの娑婆世界で、一生懸命生きぬいて修行を積むことに価値があって、お釈迦様の教えの中にこそ、救いの世界があることを示されたのです。
常不軽菩薩は修行で、人々の苦しみや憎しみが無くなり、互いに幸せが来るように菩薩行を実践し、今を生きる人に対して仏性に目覚め、仏に成ることを願われました。
仏に成ることを成仏と言います。
仏とは世の中の真理に目覚めて、心は何にも乱されないで智慧を活かし、人々の苦しみや悩みを除いていこうとする人のことです。
亡くなられた人が成仏して、私達を見守って下さることと同じなのですが、実は生きている私達が、この世において志すことでもあるのです。
人と人がお互いに敬い、その人の良いところを見ることができれば、心は次第に豊かになっていきます。
何事も他人事ではありません。
人の苦しみも自分の苦しみと受け止め、自分のできる範囲でいいので力を貸していただければ、それも立派な菩薩行です。
人に感謝、人からも感謝の心が、拝み合う心ではないでしょうか?
お互いに拝み合う心を忘れずに、仏に成る道を共に進んで参りましょう。
この方は修行の中で、出会う人全てに「私はあなたを敬い、決して軽んじたりはいたしません。なぜならあなたは菩薩行をして、仏になられる方だからです」と言って手を合わせ、拝んでおられました。
人々からは変わり者だと思われて、時には拝まれて怒りだす人もいました。
しかし、何を言われても丁寧に合掌礼拝をして「あなたは仏になられます」と同じ言葉を繰り返されました。
やがて、それが人々の心に伝わり、本当の修行者だと理解されるようになったのです。
これはいったいどういう事かと申しますと、人の心の中にある、仏に成る元である仏性を拝んでおられたのです。
仏様の救いというのは亡くなって、他の世界に行って救われるというのではなく、たくさんの苦しみがあるこの娑婆世界で、一生懸命生きぬいて修行を積むことに価値があって、お釈迦様の教えの中にこそ、救いの世界があることを示されたのです。
常不軽菩薩は修行で、人々の苦しみや憎しみが無くなり、互いに幸せが来るように菩薩行を実践し、今を生きる人に対して仏性に目覚め、仏に成ることを願われました。
仏に成ることを成仏と言います。
仏とは世の中の真理に目覚めて、心は何にも乱されないで智慧を活かし、人々の苦しみや悩みを除いていこうとする人のことです。
亡くなられた人が成仏して、私達を見守って下さることと同じなのですが、実は生きている私達が、この世において志すことでもあるのです。
人と人がお互いに敬い、その人の良いところを見ることができれば、心は次第に豊かになっていきます。
何事も他人事ではありません。
人の苦しみも自分の苦しみと受け止め、自分のできる範囲でいいので力を貸していただければ、それも立派な菩薩行です。
人に感謝、人からも感謝の心が、拝み合う心ではないでしょうか?
お互いに拝み合う心を忘れずに、仏に成る道を共に進んで参りましょう。
Posted by 住職日記 at
08:19