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Posted by 滋賀咲くブログ at

2016年01月31日   孔子の頭の中のそろばんは何で作られていたか

富と地位とは、万人の欲するところであります。しかしこの欲を得るために様々なやり方で手に入れます。その方法は、学問を修め功を立て、身をつつしみ徳をそなえることです。
  人は富み栄えることは、もとより悪いことではなく、慎重な態度が必要とします。
 ところが,往々にして人を悪人のように言われているのが世の常であります。富や地位を得るために不正な方法で得ようとするから,君子これ近づいてはいけないと言う。
 もし万が一、富、地位が外から舞い込んできたら,これを避けるべきと孔子が説いています。
 このことは、全くの偏見であって、無法で得たものだけを悪いということです。まじめに法律を守って努力した富は、決して捨てるべきでない。だから安心してください。富と名誉を得たいということは,努力するものの出生欲で有ります。


Posted by 住職日記 at 06:22

2016年01月30日   思い切って投資できるものがあって倹約も生きてくる

何事をするに於いても、心引き締めてつつましやかにやれば失敗は少ない。一家、一国、その経営すべき事業に節度とつつましやかがなくては成功するものではない。
 先日、ある大臣は、大臣職をお辞めになられました.私はいさぎよいと感じました。人間は、欲望のまま生きていく生き物です。だけど欲望も過ぎれば、悪道に落ち、ないのかもなくしてしまうという事実があります。人生ほどほどにと言う生き方がもっともベターなのです。
 つつましく生きて行く方が、いいのです。人から派手な生き方をすれば、うとまれるし、あらぬ嫌疑をかけられて、失職し、しあわせな暮らしが壊されたしまうことになってしまう。そして、倹約をして投資できることに喜びが感じる生き方ができるのではないでしょうか。
孔子が「子曰く、約をもってこれを失する者は少なし」と言われています。


Posted by 住職日記 at 04:55

2016年01月29日   観音様はスーパーヒーロー「です

観音様は、人間の困っているときにたすけてくれる仏さまです。その活躍たるや、まるでスーパーマンのようです。観音さまは出てくるお経は、観音経と言いまして、法華経のの一部です。
・・・観音様のお名前を唱えれば、たとえ大火や大水に出会っても焼かれもしないし、溺れもしない、観音様の名前を唱えれば、もし刀で斬り殺されそうになっても,相手の刀が粉々に壊れて、危機を脱することができる・・・
とまるで漫画やアニメのようにお経にとかれているのです。観音様を信じ、その名を唱えれば、たちまち観音様があらわれてあらゆる災難から逃れることができるというのです。
 しかも観音様は三十三化身と言って、どんな姿にでもなれる。
あるときは、僧侶、あるときは武士、またあるときは龍・・・・などとそんなヒーローに観音様がこの娑婆世界にあらわれて、人々を救うと言う仏教がひろめられたのである。


Posted by 住職日記 at 07:33

2016年01月28日   言葉の訂正について

先ほど、日記を書きましたが、単語の訂正をします。死活と言う言葉は、間違いです。正解は生活です。生活でなければ、意味がありませんので、ここにお詫び申し上げます


Posted by 住職日記 at 06:50

2016年01月28日   仏さまの功徳とは

私たちは、毎日の死活の中で、精進しておられるのではないでしょうか。
 たとえば、仕事が上手にこなせるとか,料理がうまく作れるとか、野球が,誰よりもうまくできるようにとか毎日精進していると言うことになるのです。だけども、精進はしてもなかなか結果があらわれてこない。一生懸命していてもうまくいかないと言うジレンマに陥ることがあり、日々悩みます。でも、だからといって、精進を怠っていませんか。
 精進を続けることが続けることは,彼岸行きのチケットを手に入れることが大切なのであります。
 よく仏さまを拝んだら,本当に功徳があるんですか。と言う疑問に陥ることがあります。
 信仰とは,そうした物物交換のようなものではありません。1000円お布施をしたから、1000円分の功徳はあるなんてことはありません。一万巻写経をすれば、がんが治るなんて,そんな都合のいい話もありません。
 でも、写経をしたり、仏さまに祈れば、間違いなく心が静まります。怒りが収まったり、煩悩の炎がちょっとだけでも静かになる。それが功徳なのです。だから、彼岸にいこうと思えば、修行をしっかりおやりなさいということです。つまり、安らかにくらすことがものごとがうまくいくことであります




Posted by 住職日記 at 06:03

2016年01月27日   今日から暖かくなるらしい

日々、刻々移り変わることが、真実です。苦であっても、楽になるからである。
 先日、お釈迦様の御生涯とその教えを、DVDで鑑賞しました。そのなかで、印象に残った言葉がありました。

努力して生きていくのは不死の道である。
努力せずして生きているのは、死の道である
努力して生きていく人には、死はない

努力することは、人間のできるさせる業(わざ)で有ります。努力は成長させるのである。
 お釈迦様は、29歳で出家して、悟りを開かれて45年インド各地を巡って,仏教を広められたのである。
 当時、身体を痛めつけて精神と肉体をかけ離すことが修行とされてきたそれを、お釈迦様は経験しても、悟りを開くことができないと他の修行者から非難を浴び、堕落されたと言われながら、あるとき瞑想の世界に入ったときに、菩提樹の下で、悟りを開かれて、仏教が生まれたのである。
 人間には、精神と肉体があって、肉体があるが故に,煩悩から解放されないから悩み苦しむのであります。
 その苦しみから解放されるには、中道の世界を発見されたのである。つまり,極端に生きるのではなく、あるかないかの真ん中で生きれば、苦もなく楽もない.}これこそ悟りなのである。その中道に生きるには,四諦八正道の教えなどであります.これこそが仏教の実践道ダリ、これを守ることができれば、心安らかに暮らせるのであります。


Posted by 住職日記 at 07:37

2016年01月26日   寒さも一休み

 日本列島が低温に覆われて、多くの方が災いに見舞われました。心よりお見舞い申しあげます。自然の驚異に驚かされます。私たち人間は、いかに自然と共存するかであります。私たちの先駆者は、便利な世の中を作るために身骨砕身努力されてきました。それには、自然を無視したことが、悲しいことが起こっているのではないかと感じています。冬は寒い、夏は暑いと言うのが自然です。それが、冬を暖かく,夏を涼しくしてしまうことで、自然が破壊されてきていることが、災いを起こしているように思います。
 勝つこと喜ばず,負けること怒らぬ心になりて,夢の勝負を勤めずして、勝ちも負けもせぬ人たらんは如何や
 
 願うところは,勝っても有頂天にならず,負けても腹を立てぬ心になって,夢のようにはかない人の世での勝負にうつつをぬかすことをせず、勝ちもせず負けもしない人となってはいかがですか。



Posted by 住職日記 at 07:12

2016年01月25日   私達、本来仏なり

 今朝、この冬初めての積雪です。一昨年と比べて、積雪の回数が減りました。
 今年は10年に一度の寒さと言うことで、長崎、鹿児島、沖縄の方にも雪が降ったそうです。また、昨日は,氷点下の一日で、風の冷たさが肌にさしました。
 ところで、私達の持つ煩悩と仏の関係を考えて見ると、氷と水のたとえることができます。私立ちがこの世に存在しているときは氷のように凝り固まっている煩悩に悩まされているのです。そんなときあるきっかけがあったならば、仏に目覚めて,煩悩が融けて、仏になれるという話です。
 仏はみんなもっているのです。だから私だけが煩悩に悩んでいるのではありません。煩悩が融けて、自由になって、周囲の人を救えるのです。これが仏の姿なのです。どうか心穏やかに過ごすことが大切なのです。欲はほどほどにしていればです。

 
 


Posted by 住職日記 at 08:00

2016年01月24日   おお寒い

天気予報どおり、10年に一度の寒いと言われる通り、今年一番寒い一週間の始まりです。
 毎朝の勤行を、本堂で勤めるのですが、木魚をしもくでたたくのですが、しもくを持つ手の指先が凍傷にかかります。1時間勤め終わって、庫裏の部屋のストーブで指先をあたためますが、痛くてたまりません。30分位あたためると、少しづつ治っていきます。
 勤行では,世界平和と壇信徒の家内安全、息災安穏、病気平癒などの祈願をしています。
 昨日、滋賀県子ども会の会合に出席してきました。メンバーは、50代以上で、子ども達の健全育成のために、情熱をもって、活動している仲間です。議題は,子ども会活動には怪我がつきものです。そのための保険のことです。昨年の子ども会活動の保険実績を見ていると、子どもの怪我より、保護者の怪我で保険の支払いが多いことです。子どもの活動には、大人のサポートが不可欠です。その大人の怪我とくに指つめ、骨折と重大な傷病でした。
 保険の加入者も年々減少していると言うことで、きびしい状況があります。子ども会は、大人になるための必要な会ですが、面倒であったり,役員になりたくないことを理由に加入しないことが大きな原因です。私も子ども会にかかわって30年ですが、豊かな町作りのためにこれからも支えて生きたいと考えています。



Posted by 住職日記 at 07:34

2016年01月23日   みのるほど頭が下がる稲穂かな

人は、知識や経験を積めば,偉くなり,頭(ず)が高くなると言う意味です。謙虚な心で生きてくださいという戒めで有ります。人は偉くなることは悪いことではありません。むしろ、人の上に立つことは、いいことです。先日、ある大臣は、賄賂をもらったと言ううわさで広がっていますが、偉くなるとおごりの心で他人からねたまれ、足を引っ張ろうとする輩が出てきます。
 上から目線で言いたくなり、それが他人から疎まれる。仏法ではこれを慢心(おごり)といい、強く戒めています。
 偉そうにしている人には魅力がない。どんなに偉くてもである。偉そうにしている人は自分に自信が持てないから偉そうにする。本当に偉い人は落ち着いている。風格がある。そこからかえってその人の尊さが伝わってくる。表題の言葉は、みのるほどに垂れ下がり、頭を低くしていることが大切なことであります。
 仏法に「南無」と言う言葉があります。南無とは頭が下がると言う意味です。頭を下げているのではなく、下がっている。つまり相手を敬う気持ちを持つことである。
 私たちは、頭を下げるのではなく、頭が下がるものものとの出会いを持ちたい。頭を下げるのは自分次第である。自分で頭を下げる。みな私達は自己都合で生きている。都合良くことが進むとニコニコして頭を下げる。都合よく進まないと不愉快になり、益々頭が高くなる。
頭が低いと世界が広がり、多くの学びがある。
そしたら、生きることが楽になり、つつましやかになる。その人が光り輝いて見える。周囲も輝いてくる。


Posted by 住職日記 at 07:28