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Posted by 滋賀咲くブログ at

2017年09月30日   名古屋からお参りに来ていただいています。

9月28日から3日間、名古屋から30人前後のお参りを受けています。大変ありがたいことです。
 玉泉寺の縁起と心の幸せのお話をしています。お話をしていると、メモを取ったりして、熱心です。お話の中に、地獄と極楽の別れ道をお話しして、なるほどとよく聞いてもらっている姿を感動しています。


Posted by 住職日記 at 07:46

2017年09月28日   境内地に美しい花が咲いています

先日、駐車場に美しい花が咲いているのに気がつきました。何という花でしょう。
生きていると美しい花に出会えるのです。ところが,自ら命をなくす人々がおられるのを聞くと、悲しいです。このよに生を受けるのは,偶然なのです。其の命を大切にしなければなりません。人間はいいですよ。考えたら,楽しくなります。智慧が身につき、進歩させることができるのです。ものを作って売れば、儲かります。そうすると,生きがいが生まれ、旅行もでき、楽しいことばかりです。ほんといいですね。
だけど、悲しいのは、欲を貪って窮地に陥ってしまうことがあるので、気をつけて欲しいのです。
 釈尊は、少欲知足と言う言葉を残しておられます。欲を少なくして足ることを知ると言う意味です。欲をほしいままにすると悪道におち、人と争わなければならない。これはあってはならない。争うことより、人は支え合わなければならないのです。これが幸せな人生というものである



Posted by 住職日記 at 02:24

2017年09月27日   このよは不思議なことだらけ

 このよは不思議な事があるから、楽しく生きられるのではないでしょうか。ふと思うことは、あります。
 先日の台風も、夜中の間で、勢力を衰えることなく.滋賀県の上空を駆け抜けていきました。他の地域には申し訳ないのですが、被害を
こおむることなく、通り過ぎていきました。また人との出会いでも、思いがけない人と出会うことも不思議な事象です。そう思うとふしぎなことが一杯あります。
  釈尊が説くなかに、善根功徳を積むと言う言葉に出会います。良い行いをしていれば、かならず、未来に良いことが怒るということではないかと考えています。
 私たち、この娑婆世界で生きているものにとって、悩み苦しみの多い者たちへの希望の火ではないかと考えています。どこかで新党を結成された方が、そのような名前をつけられたのですが、其の趣旨が何だったでしょうか聞きたいものです。
要は、良い行いをすれば、必ず、ふしぎなことに出会えるということなのでしょう。


Posted by 住職日記 at 07:26

2017年09月25日   お水に取り替え

毎日、おぶっぱんと水を取り替えています。どうしてするんですか
子どもに尋ねられたのです。
こども「お水飲まないのに」
お坊さん「飲むかもしれない」
こども「のまないもん」
お坊さん「・・・・・無言」
水を飲むのは、まわりの人や勝っている動物だと子どもは感じています。
さらに子どもは言うのです。
子ども「飲まないのにどうして」
お坊さん「飲まないかもしれないけど,お坊さんはお水を上げるとうれしいのです。」

子どもはそれを聞いて、不満のようでした。
見えなくてもお花は、お花をお供えしたい。
食べなくても美味をお供えしたい
聞こえなくても話したい。
見えざるものへの真心は美しい。
お経に記されているのです。私は、それを実践して、人々に喜ばれることをしています。それが、人々のくらs、国の繁栄につなげていると確信しています。



Posted by 住職日記 at 07:12

2017年09月24日   当たり前とお陰さま

私たちは、多くの生き物を食事して、命を維持しています。食べ物は命の源です。食べ物も命があります。また水、日光、空気など、生きる上においてなくてはならないのです。しかも生き物が生きるためには必要な環境は基本的にはタダなのです。それが当たり前にあるのです。その当たり前ですまされているところに人間の"行き詰まりが生じて、苦しむのです。
 当たり前の反対語は、お陰さまです。お陰さまは、普段見えない「かげ」の力に「お」と「さま」をつければ、お陰さまとなります。
 当たり前でなくなって、はじめて知るありがたみとか、咲いた花を見て喜ぶことより、育てた根っこの恩を知れと言うことなのです。
 人はみな一人だけの力で生きていくことができません。
 自分の為にだけ生きるのではありません。お互いに他人の力をお借りして生きているのです。その支えがあるからこそ、生きられるのです。日々感謝の心で生きて行けば大願成就噶でき、幸せに生きられるのです。


Posted by 住職日記 at 03:36

2017年09月22日   災い転じて福となす

先日、ある信者様が、88歳でこのよを去られました.。なじみの方がいなくなるのは悲しいです。この世に生を受けたものすべて、いつかは死が訪れる。これは真実の姿であると釈尊は説かれました。まさしく諸行無常で有ります。だけど、その真実から目を背けてはいけない.なぜなら,このよに人間として生まれたからには、人々の為に良いことをしよう。人に喜ばれることをしよう。それが、人間に生まれてきたる幸せというものです.それがなければ、むなしく生きて行かねばならない。むなしく生きるより、楽しく生きたいものです。人と多くを語り、寄り添い,そして年を取っていきたいものです。
災いといのは、生きて行く為の黄色信号、赤信号のような"ものです。常に自分を戒めて,行かないと幸せなんか訪れて来るはずがない。悲しいことに逢うから、また生きていこうという力がみなぎるのではないでしょうか。「苦あれば楽あり」という言葉がうまれたのではないかと思います。


Posted by 住職日記 at 08:07

2017年09月21日   人々の訃報を聞いて

先日、近くの家のかたが、お亡くなりになられた聞きました。その方は、今年、88歳になられる方で、昭和初期に生まれていて、戦前、戦中、戦後の混乱な時代に生き抜いてこられたのです。社会は貧困そのもの、食べるもがなく、着るものがない。その方は農家の長男で、家、田畑を守り、それだけでは食べる事が出来ないので、他に仕事を求めて、家族の為に、身を粉にして仕事ばかりの人生でした。ただ一つ生きる喜びを感じられたことは巡礼参りでした。これには、奥様と二人の旅出会った思います。本当に"お疲れ様と心の中で念じています。
阿弥陀経に「命終わる時阿弥陀様が諸々の聖衆とともに現れて、その故人の目の前にましません。必ず"阿弥陀仏のいる極楽往生に」往生することは間違いないですよ。そして阿弥陀仏の不可思議な功徳を褒め称えてくだされば、私たちすべてをお守りします。と説かれています。だからお経を読んで,信心しなさいよと解釈されています。


Posted by 住職日記 at 08:46

2017年09月19日   人に喜ばれてることをしよう

自分が、自分のために働くとか、自分だけが助かったよいとか、ほんと自分勝手な人が多すぎます。
 今から四十年前を思い起こしてください。人に喜ばれる製品を作って、稼いで来た。土地の値段も上がった。百貨店は儲かった。財産も増えた。いわゆるバブルの時代だった。不思議なくらいお金が流通した。でも、今はどうでしょう。作っても売れない.人に喜ばれるものがない。あまりにも、豊かすぎてほしいものがない。お金は思うように流通しない。そして喜んでもらおうとして、詐欺が横行している。とんでもない社会が生まれてきている。ああ嘆かわしい。
 お年寄りは,とにかくさびしい。つい親切なことを言われると、口車に乗って、多額のお金をだまし取られる。何たることか。
 私もよいことを言われるとだまされやすい性格です。
 だけど、今私は人に喜ばれることをしよう思う。
 時間があれば、お年寄りのところに行って、しゃべろうと思って訪れています。先ず聞くことをしよう。そうしたら、だまされることはないであろう。そうして仏の教えを伝えて行こう。それが自分にできることである。


Posted by 住職日記 at 09:59

2017年09月18日   常に平常心で

私たちは、身の回りで,何か起こると,慌ててしまう。これは、私の身近にいる人々に混乱を招き、不安に落とし入れることになる。
 不安を仰いでは、自分に不幸なことになる。
 お釈迦様の教えでは、人々に安らぎの心を持ってもらう為に、他人には喜びを感じてもらう事が第一とすることである。なのに、不安を与えてはならない。
 人は悩みや苦しみをもっています。それをいかに顔に出さないで、にこやかに接することが大切なことです。すると、人はみな、支えてもらえるのです。自分から、不幸を見せびらかせていると、人はよってこない。それよりもにっことしていると、人が"やってくる。
 これは自分のことを言っているような気がします。
 僧侶たるものは、厳しい顔が必要なことですが、あまりにも、厳しすぎると、近寄り難い人になって、寂しいものです。つまり、どんなことでも気軽に相談してくれる方が、いいのではないかと思い、笑顔で生きて生きたい。
 


Posted by 住職日記 at 00:18

2017年09月15日   身心を制して心は常に自由です

私たち、凡夫は、執着心で、縛られています。ものに執着するとか,よこしまな考えで、人に迷惑をかけるとかよからぬ思いで,失敗している人をよくお目にかかります。後悔先に立たないで有ります。やってしまったことは、どんなに悔いての、とりかえしがつきません.それだけ、苦しいです。人間、常に苦しみを背負っています。苦しいから、神や仏に祈願するのが、古来の先人の生き方ではなかったかと思います。
 現代は、神や仏に頼らずに,自分で解決しようとして、余計に苦しみを倍増させている気がします。だから,とことん墜ちているのである。
そんなとき、他人の意見に傾けると,苦しみは半減します。なにも苦しみを一手にひきうけなくてもいいのではないでしょうか。
 苦しみを半減して、幸せをとともに味わいましょう。
 お寺は、皆さんの幸せを祈るところです。一度お話して見ませんか。どうぞ来てみてください。
ただ留守するときがありますのでご一報いただければうれしいです
携帯090-3708-7206木村です


Posted by 住職日記 at 07:31