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Posted by 滋賀咲くブログ at

2014年09月30日   法事について

母親の13回忌と祖母の23回忌を迎えます。私を育ててくれた2人の法事をします。私が高校生の頃、祖母は、しゃべるのが好きで、多くを語っていただいたおかげで、現在の私があることに感謝しております。また母親は、厳しく育ててくれたおかげで、住職の道を歩まさせていただいております。その恩に感謝する日が近づいてきました。亡くなった方が仏に生まれかわって、私たちを見守っていることを強く感じ、さらに繁栄があることに気付かねばならないと思う毎日です。


Posted by 住職日記 at 06:52

2014年09月28日   多くの出会いに感謝

9月最終の日曜日、久しぶりに、檀家様のご法事がなく、寺で過ごしておりました。午後より、朱印の参拝者と出会わさせていただきました。中には、1度目に参拝された方が、留守で出会えなかったと残念に思われて、2度目に来られ、偶然の出会いができたことに感動しました。
まず、本堂に入堂していただき、焼香をします。焼香は香を薫じるといいまして、悪いものを体から吐き出して、善い香りを嗅ぐことで、元気になって、帰ってもらいます。そこで、私と出会ったのですから、本堂の悟りの世界に入っていただき、多くの仏様と出会っていただき、仏様を身近に感じていただきます。そうして、娑婆世界に出てきてもらい、地獄絵図を見ていただき、心の戒めをしてもらい、悪い心をなくし、善い心で、暮らせるようにお伝えして別れています。
夕方までに、10組の方と出会わさせていただきました。
また、偶然の出会いを期待したいものです。



Posted by 住職日記 at 23:01

2014年09月28日   地獄であり、極楽はおのれの心に作り出すもの

まさに、この世は地獄であり、極楽である。極楽は、何不自由なく、暮らせることである。暑さも寒さもなく、食べられないことはない。至れりつくせり。地獄は、他人を傷つけ、おのれさえよかったらという世界である。この2つの世界が、仏の教えでもって、中道の世界に導くものである。中道といえば、かたよることなく、心が穏やかに過ごすことである。得か損かでなく、大慈悲の心でもって、他人の幸せを祈れば、必ず自分の幸せを感じることができるのである。それが愛であったり思いやりの心である。悪い心を戒め、善い心を積むことができれば、幸せな人生を歩むことができるものである。
わが宗派は、戒めて念仏を唱えれば、救われ、豊かな生き方できる教えをもっている。そうすれば、人々は、幸せに暮らせるのである。


Posted by 住職日記 at 07:17

2014年09月27日   恥を知るは勇に近し

まず、恥を知りなさいをよく言われます。怠ける人にいうて、奮起を促す言葉であります。恥を知らない人は、自分ばかり主張して、他人を押しのけていくのは決して勇気ある人とは言えないのであります。恥を知るとは、自分を顧みて、自分という存在は周りの大自然のおかげによって、社会のみなさんのおかげによって生かされていることに気付くはずであります。そうすると、強く生きられるし、皆に支えてもらえるのです。支えてもらえれば、天下人になれるのです。現代は天下人になることより、自分らしく生きられるかであり、喜びをもっていきたいものです。


Posted by 住職日記 at 07:05

2014年09月25日   無題

今朝、ニュースで神戸の小学1年生の女の子が、遺体で発見され、犯人も捕まったと聞きました。なんとむごいことが起こりました。憤りと腹立たしさ、そして深い悲しみを感じました。どうしてこんなことがことが起こるのでしょう。他人の命をいのちと思わない世の中に腹立たしくか案じます。もっと宗教家が教えを説かねばならないと責任を感じ、一層のこと、お寺の生活だけに絞る時期が来ていることを感じています。もう二度とこういうことが起こらないように法を説きに出向く必要が出てきたように思えてなりません。


Posted by 住職日記 at 20:52

2014年09月25日   煩悩の火はおのれを焼く

まことにこの世はおのれを焼く。むさぼりの火、瞋りの火、愚かさの火、生老病死の火、憂い、悲しみ、苦しみ、悶えの火。様々な火によって炎々と燃えあがっている。これらの煩悩の火はおのれを焼くばかりではなく、他をも苦しめ、人を身・口・意の3つの悪い行為に導くことになる。しかし、これらの火によってできた傷口のうみは触れたものを毒し、悪道に陥れる。
 仏像を拝むと、どの仏様も菩薩様も、眼を半分だけ閉じておられますね。半分は自分を見つめ、半分は世間の迷える衆生に配慮なされています。座禅がその形です。
 悪道に落ちないように、仏様は、守っておられます。常に心穏やかにいることを目標にして、礼拝するのです



Posted by 住職日記 at 05:59

2014年09月24日   心ここに在らざれば、視れども見えず

私たちは、親にもらった二つの眼で周りの世界を見回して、何の不自由なく暮らしています。しかし、私たちは果たしてこの両眼で正しくものを見ているのでしょうか。どうかすると、虚ろな目で現実を眺めまわしているのでは」ないでしょうか。
佛教には、心眼という言葉があります。この眼は.心を閉じたままではいけないのである。悟りを開くことである。人は、成熟すれば、心の眼が開き、真実の姿が見えて、心安らかになるのである。この二つの眼には、限界がります。嘘を見分けられない。心の眼は、その嘘を見分けられます。自信をもって生きていけるのです。真実を見えるものには、強く生きられるものである。心の眼を開き、老いを迎えましょう。



Posted by 住職日記 at 00:03

2014年09月22日   今日の後に今日はなし

彼岸も折り返しと月日が過ぎゆきます。秋の彼岸も200人の方がお墓詣りをなされました。当山は、共同墓地の中にありますので、宗派問わずにお墓があり、他宗派の方が朝早くからお参りをなさるのです。大変ありがたいお寺です。お墓を参るということは、先祖様と出会い、今あることを報告して、願いごとを聞き取り、将来かなえてもらえる希望をいだきます。
 その彼岸を迎える縁は、貴重なことです。お墓詣りをしようと思わなければ、いけないのですから、思ったら、すぐ実践することです。そうしないと今日という充実はないのです。彼岸だけないと思います。思ったことを実践することで、心は豊かになるのです。
でもお墓はいいものです。なぜなら、自分を振り返り、また一歩前に進むことができるのだから。


Posted by 住職日記 at 06:42

2014年09月21日   山河を見るに仏性をみるなり

自然界の草、花、木に心が宿っています。境内地に草が生えて、草を取る苦労があるが、草も目を出して、羽ばたきたいという心を持っているはずである。これが仏性である。だけども、そのまましておくと、見苦しくなるので、取らなければならない。そこに草木成仏という言葉がるように、仏になっていただいて、生きている私たちを見守ってもらうのです。仏は、私たちの中に宿り、願い事をかなえてもらえるのです。手を合わす習慣をつけたいものです



Posted by 住職日記 at 00:15

2014年09月21日   山河を見るに仏性をみるなり

自然界の草、花、木に心が宿っています。境内地に草が生えて、草を取る苦労があるが、草も目を出して、羽ばたきたいという心を持っているはずである。これが仏性である。だけども、そのまましておくと、見苦しくなるので、取らなければならない。そこに草木成仏という言葉がるように、仏になっていただいて、生きている私たちを見守ってもらうのです。仏は、私たちの中に宿り、願い事をかなえてもらえるのです。手を合わす習慣をつけたいものです



Posted by 住職日記 at 00:15