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Posted by 滋賀咲くブログ at

2020年02月24日   サイの角のようにただひとり歩め

 サイの頭部にそそり立つ太い一本角のように、独りで自らの歩みを進めなさいという意味です。
これはお釈迦さまのことばであり、私たちの悩みは人間関係から起こるものです。
つまり、悩みを生み出す原因が「人のつながり」にあるのなら、そこから一時的に離れてみることです。

 現在のように、つながりからこぼれ落ちた存在が際立っています。人々は他者とのつながりを求め、それが断たれた状態を不安や不快を観じます。ですが、実際のところ私たちが孤独を感じるのは、周りの人に囲まれながらも「誰も私のことを見ていない」「誰も私に関心を持っていない」と実感するときです。一人でいることが孤独感の原因なのではなく、周囲とのつながりを実感できないからこそ孤独を痛みとして感じます。にもかかわらず、私たちは一人になることを怖れ、なるべく他者とつながろうとする結果、毎回同じ痛みを感じるものです。

いろいろと為になることがらを知り、疑惑を除き去って、犀の角のようにただ独り歩め。といいたい。

 仏教では「悩みの原因となる対人関係から距離をとる」という意味であり、孤独を勧めると共に「優れた友との交流」を勧めます。一見して矛盾するかもしれませんが、そのねらいは真に独立した人格を形成するためにはどちらも必要ということです。そして、ここでの「友」は対人関係における友人に限定されません。例えば、大学生であれば自身がひたむきに学ぶ学問が「友」になり、社会人であれば自身が責任をもって勤しむ仕事が「友」になります。つまり、自身を成熟へと導くものが総じて「友」と呼ばれるのです。

 いかに友を作るかで、孤独を支えるものであり、孤独と向き合う時間は貴重です。なぜ孤独が必要なのか。それは自分が本当は何を求めているのかを知るためです。そのとき、学びや仕事は孤独を支えてくれるでしょう。



Posted by 住職日記 at 14:16

2020年02月18日   執着は、悩みの原因となる

人間は、どうしても執着する心を持ちたがります。それは、友人がもっているものが欲しいとか、新しい家に住みたいとか、かっこいい車が欲しいとか、執着することが生きることになっています。若いときは一杯ものを持つ楽しみで、生きています。ところが、年を取れば、荷物を捨てていくことがいきることではないでしょうか。
最近、私のまわりの人が終活をされました。その理由を聞いて見ると、大きな家に住んでいることが負担をなって、スリムしていきたいということす。その方は、家具、荷物を整理して、小さなアパートに引っ越しされました。もう執着しないで余生を生きたいということです。確かに、たくさんの荷物を背負って生きるのはもういやと言うことです。
お釈迦さんの教えの中に、若いときは人生を学び、成人したら、所帯をもったら家を建て、そして壮年になったら、林の中で静かにくらし、年老いたら、荷物を減らしていって、そして臨終を迎えて行くという教えがあります。
まさに、その通りです。いつまでも執着が強いと苦しみが増えるだけです。
 大きな心になることもたいせつではないでしょうか。そこに、その視野を広げるのが信仰ではないかと思います。お寺に来て多くの方と出会い、語り合うことができれば最高ではありませんか。仏縁こそが豊かにくらすことだと考えます。


Posted by 住職日記 at 20:01

2020年02月14日   お釈迦様の教えは、自分のことを信じなさい。

お釈迦様は十大弟子の一人アーナンダにいいました。修行僧は、自己をたよりとして、他人をたよりとせず、法をよりどころとして、他のものをよりどころとしない。
  何事をするにも自分で判断できないという優柔不断な人というのがいます。あるいは子供のように智慧が発達していないので、どうしてよいか解らない。一般の大人でも進学、結婚、就職、リストラ、マイホームの建築など人生の節目では、自分ひとりではなかなか判断できないこともあります。このような場合、普通は周囲にいる信頼できそうな人に相談することになります。
 おそらく、自分だけで判断した場合よりはうまくいく保障がない。
 そのとき、「あなたの話した通りにやったらこんなことになってしまった。どうしてくれるのか」という人がいます。これはとんだ門違いの話です。
 相談相手の話はアドバイスであり参考意見として受け止め、結論はあくまでも自分で出さなければいけません。そして、その結果は全て自分で責任を負わなければなりません。さて、自分で結論を出すといっても難しい問題の場合は困ってしまいます。そのときの判断の拠り所になるのが法です。法とは本当のこと、すなわち真理です。真理とは中道であり、是れがお釈迦様の教えで有ります。
どうしたらよいか迷ったら法を拠り所として、自分で判断しなさい、そしてその責任は全部自分で受け止めなさいということですし、他の者の意見や原理、原則、主義、主張に惑わされてはいけません、ということです。




Posted by 住職日記 at 08:11

2020年02月11日   手放すことは生きやすくなる

仏教では、昔から人生を四つの時期に分けて考えていまう。人生の基本を学ぶ「学生期」、結婚して家庭を営み、社会的な責任を果たす「止住期」、個人に戻り、林の中で住む「林棲期」、一所定めず旅に暮らし、どんどん所有物を減らしていく「遊行期」です。

お釈迦様も亡くなる間際まで旅を続けました。
旅をするということは、家もありませんし、極力自分の荷物を減らしていくのです。
死はすべてを「手放す」ということであるため、旅にでることは、手放すことであります。
現代社会に生きる私たちは、死ぬまでものを抱えたままでは、苦しみしかありません。
孤独に身をおき、無一物の生活を送っていたからこそ、普通の人が見逃してしまう諸法無我の恵みに気づきやすかったのではないでしょうか。
「生きているだけで十分や」と言う心で生きて行けば、どんなに楽に生きられるのだと思います。

立場やプライドや地位や名誉やお金や所有物によって、自分をがんじがらめにしてはいないでしょうか。
人間は本来生きていることだけで素晴らしく、有難いものだと思うのです。
世間が決めた価値観に自分を当てはめて、「幸せ」「不幸せ」「勝ち組」「負け組」などと一喜一憂するのではなく、本当に大切なものは何か、その答えをしっかりと自分の中で持っていれば、感謝の心で穏やかに生きていけるのではないでしょうか。

仏教は、「手放す」「施す」ことで人生がより生きやすくなることを示しています。





Posted by 住職日記 at 07:17

2020年02月07日   期待しない心でいよう

人は、何ごとにおいても期待しませんか。期待しないで生きて行くことなんかありません。期待しない生き方とはどんなに楽に生きられるでしょう。
例えば、挨拶をすれば、挨拶を返してほしいと思います。
元気よく挨拶して、相手から挨拶が返って来ない時は、すごく残念な気持ちになります。

しかし、相手を変えることは容易ではありません。
そのような時、どのように考えれば良いのでしょうか。
そのような時は、自分がどういう人間でありたいかを考えてほしい。

どのような人に対しても、笑顔で挨拶できる人でありたい。
そのように思うのであれば、挨拶できたことだけで十分なのです。相手から挨拶が返って来なくても、自分の目的は達成されています。挨拶できた自分を認めればよいのです。
一切皆苦と言う言葉が般若心経に出てきます。。思い通りにならないのが人生です。是れが苦しみです。自分のことさえも思い通りにならないのに、他人のことを思い通りにするなんていうことは、できないものです。これが目的をもった生き方です。
頑張っている人ほど、周りへの期待が大きくなってしまうことがあるような気がします。
「自分はこんなに頑張っているのに、なぜ周りは助けてくれないのか。」「なぜ理解してくれないのか。」
だから、「自分がやりたいからやる、という心構えでいなさい。やってあげるなんて、おこがましい」

期待しないことで生きやすくなることもあるのだと思います。


Posted by 住職日記 at 21:45

2020年02月06日   人生、質素に生きてこそ幸せを得られる


僧侶の姿は、質素に生きるかrらこそ、人々に幸せを与えるものです。

坊さんの着る衣は、ぼろ布を張り合わせたもの、世間の人が不要になったものを身にまとうことで、世俗を捨て、栄華を求める煩悩を断ち、修行に打ち込むことの表明となります。
托鉢用の鉢は、修行一筋で働かないので、食べていけない。人からの施しによって命をつなぎ、修行に打ち込むことになります。

他人からの施しで生きていくこと。
それは質素な生活に安住することでもあります。
質素な暮らしに安住してこそ、世間の煩わしさから逃れることができ、大切な真理がみえてくるのです。

人は、華々しい生活、栄華を求め、それに囚われてしまう。あるいは、他人の成功や暮らしに目を奪われ、自分と比較し、落ち込んだりもする。しかし、モノにあふれ、お金持ちであったとしても、それは、幸せであると勘違いします。
 富める人もまた、その富を守ろうとしたり、増やそうとしたりすることに囚われ、終わりなき無明の世界に埋没してしまう。
質素な生活であればこそ、本当に大切なものを見失わずに生きていくことができるのだとお釈迦様は説いたのです。、物で溢れた現代人に僧侶は人々に説き歩いて生きたいです。


Posted by 住職日記 at 11:12

2020年02月04日   先祖供養の大切さ

先祖供養は大切だと言われていますが、それはなぜなのでしょうか。

どのような先祖がいるのか、全てを知るというのは難しいことかもしれませんが、先祖がみな幸せな人生を全うし成仏できた方ばかりとは限りません。中には生きている時に罪を犯したり、強い恨みを抱いたりして、そのまま亡くなった方もいるかもしれません、そういう先祖は成仏できないまま、今も苦しんでいると言います。

そういう先祖の因縁は、今生きている私たちにも悪影響を及ぼします。人生がうまくいかないという方には、原因が先祖の因縁からくる可能性もあります。

また、先祖や家族に対する感謝の気持ちが足りないことで、霊的に断絶をしてしまっていることもあります。亡くなった方との心の繋がりは、現世の人間関係と同じです。

良い人間関係を築くことで大切なのは相手に対する思いやり、感謝の気持ちだと思いますが、それを怠ることによって先祖からのご加護も受けることはできなくなります。

先祖の成仏を祈り、感謝の気持ちで供養を行うことは、子孫である私たちの幸せにも繋がるのです。

④先祖供養の方法

仏教では「報恩感謝」という言葉があります。先祖や親の恩に感謝するという意味ですが、仏壇の前で手を合わせる、お墓参りに行くというのは自分の心の気持ちを表すためのものです。

自宅に仏壇がある方は、毎朝ろうそくに火を灯し、お水やお茶を供えて線香をあげて手を合わせます。仏教の宗派によって経典は違うと思いますが、時間があれば読経で先祖供養するのがいいでしょう。

家に仏壇がないという方は、お彼岸やお盆、人生の節目の時などにはお墓参りをして、先祖の成仏を祈り、感謝の気持ちを伝えましょう。

⑤先祖が喜ぶ供養とは

先祖を大切にするという気持ちを表すのは掃除です。仏壇やお墓を念入りに掃除することで、先祖に感謝の気持ちが伝わりやすくなり、先祖も喜ぶと言われています。

また、お供え物をする時は、果物なら皮を剥いたり、袋に入ったお菓子は封を切ったりして、すぐに食べられる状態にしておきます。肉体を持たない霊は開けることができないからです。

お供えするのは、半日から一日で十分です。細やかな気配りをすることで、先祖たちは喜びます。私たち子孫の繁栄を、ずっと見守り続けてくれることでしょう。



Posted by 住職日記 at 00:43

2020年02月03日   法華千部会の開催

4月5,6,7日三日間、天台真盛宗総本山西教寺において、春の大法要法華千部会を開催します。
この法要は、毎年開催していて、世界平和祈願、子どもの学業成就祈願、昨年亡くなられた方の追善回向、英霊者の追善回向、水子供養、納骨回向などさまざまな回向をすることで、人々の安穏を祈るためにやっています。
三日間の食事は、無料で提供して、お参りいただいた方をおもてなしをいたします。
ここ西教寺は、室町の戦乱の世から、守り続けてこられた歴代の貫首が、人々の平安を祈り続けてこられます。その西教寺にお参りください。


Posted by 住職日記 at 10:05

2020年02月01日   蒔かぬ種は生えぬ

人生、種を蒔かないと実りあることが生まれない。ただ平凡にくらすことができればそれでいい。というのは寂し過ぎるではありませんか。
やっぱり変化に富んだ生き方ができれば、うれしいことであります。
だけど、あまりにも変化に飛びすぎると、煩悩に苦しまなければなりません。安もんがいの買いの銭失いと言いますが、買うときには吟味する必要があります。
でもそれよりも、種を蒔かないで、善いものが生まれてこない。種を惜しんでは、実りがない。
畑がそうでしょう。種を植えることで、おいしい野菜が収穫出来るのです。
お寺はなぜ存在するの。亡くなった方を弔うためではありません。生きている人たちが、元気にするためにあるのです。
悲しみ、苦しみに悩んでいる人を救うためにあるのです。
当山は、可能な限り、在宅して、lお参りに来られる方にお話しを聞かせてください。聞くことで心が楽になります。
人とめぐり逢うことが善い種で在り、その種が人々に幸せをいただいてもらえることが実りと思います。



Posted by 住職日記 at 09:47