先月より、宗のありかた委員会で、仏教をあり方について、14人が集まって会議をします。
内容は、人口減少に伴い、お寺が必要かという問題です。葬式仏教でお寺が必要というひとがいます。ところが、人が亡くなるというのでなく。人間いかに生きて行くかであり、仏法を説くかであります。
そんな話をして、これから10年後のお寺のあり方について研究しています。
内容は、人口減少に伴い、お寺が必要かという問題です。葬式仏教でお寺が必要というひとがいます。ところが、人が亡くなるというのでなく。人間いかに生きて行くかであり、仏法を説くかであります。
そんな話をして、これから10年後のお寺のあり方について研究しています。
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19:09
光陰矢のごとしという言葉がぴったりかな。2020年もあと1ヶ月です。今年の目玉はやはりオリンピックでしたが、コロナ渦で、一年延期です。このオリンピックで、日本経済が豊かになると予想されていましたが、まさかの出来事で、人々の暮らしが暗転してしました。だけどこの世は無常です。同じことがとどまらないのです。無事でいていれば、また夢を見ることができるのです。
今は人々の無事を祈るばかりです。いのちは大切にしなければならない。生きていれば、夢の実現は叶えられるはずです。今は我慢です。
おごらず、高ぶらず、慢心のこころにならければ、未来はきっと来る。信心こそが、幸せを手につかむことができる。
今は人々の無事を祈るばかりです。いのちは大切にしなければならない。生きていれば、夢の実現は叶えられるはずです。今は我慢です。
おごらず、高ぶらず、慢心のこころにならければ、未来はきっと来る。信心こそが、幸せを手につかむことができる。
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07:23
ある男の人が、愛しい奥様をがんで亡くされました。人生で一度の出会いで、善き伴侶となり、子どもを授かられました。人生にはまさかのことがが起こりました。これは、防ぎようが有りません。ほんとに悲しいことが起こりました。その男の人は、49日の間、ただただ遺影を眺めて一人悲しみにうちひしがれていました。7日ごとに、念仏やお経、そして御詠歌を唱えに訪問して、いろいろとなやみを聞くことにいたしました。。
そうして、49日めになり、仕上げをさせていただきました。その男の人は、ようやく元気に取り戻して、普段の日常の生活を送るようになったのです。
僧侶というのは、聞き役に徹することだと思います。そうして、その人がこころを開いてくれたなら、もう安心です。それからは、毎日、仏様にご飯とお水をお供えして、静かに念ずる生活がやってきました。
いつも仏様が見守ってくれています。あなたは、一人ではないのです。念ずれば、必ず、物事が成就できるのです。これは信ずるこころではないでしょうか。
私も、20年前に母を亡くして、いつも仏様が寄り添って生きています。
そうして、49日めになり、仕上げをさせていただきました。その男の人は、ようやく元気に取り戻して、普段の日常の生活を送るようになったのです。
僧侶というのは、聞き役に徹することだと思います。そうして、その人がこころを開いてくれたなら、もう安心です。それからは、毎日、仏様にご飯とお水をお供えして、静かに念ずる生活がやってきました。
いつも仏様が見守ってくれています。あなたは、一人ではないのです。念ずれば、必ず、物事が成就できるのです。これは信ずるこころではないでしょうか。
私も、20年前に母を亡くして、いつも仏様が寄り添って生きています。
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04:05
この世は、欲の人生を歩みます。欲がなければ、人を幸せにすることは有りません。欲は、生きる上に置いて必要です。
食べる欲、人にために役立ちたいという欲,寝たいとい欲、子どもを作りたいという欲、有名になりたい。家を建てたい。社長になりたい。
教師になりたい。不倫をしたい。などなど世の中には、かぞえきれない欲が有ります。でも、人間生活をしていくためにには。悪く欲と善い欲が有ります。していい欲は、幸せになりますし、してはならない欲は他人を不幸にします。やっかいなものです。
善悪を考えるときのものさしは、どこに求めたら良いのでしょうか。これを倫理という学問です。倫理は、人の道であり、してはならない欲を取り払わないと生けないのです。その欲を取り払うには、どうすればいいのでしょう・これがお釈迦さんの教えです。
お釈迦さんは、生老病死の苦しみを感じられたから、家を出て、難行苦行の道をあゆみ、悟りを開かれたのです。
悟りを開かれてからは、人々に寄り添い、困っていること、悩んでいることに、アドバイスをされて。ひとびとに慕われるようになったのです。苦しみとは思い通りにならないことです。思い通りになれば、苦しみを味わうことがないが、思い通りにならないから、苦しみことを悟られ他のです。
欲の有る人生とは,つらいものです。だけど、この欲を押さえて暮らしてこそ、人はすくわれるのです。
食べる欲、人にために役立ちたいという欲,寝たいとい欲、子どもを作りたいという欲、有名になりたい。家を建てたい。社長になりたい。
教師になりたい。不倫をしたい。などなど世の中には、かぞえきれない欲が有ります。でも、人間生活をしていくためにには。悪く欲と善い欲が有ります。していい欲は、幸せになりますし、してはならない欲は他人を不幸にします。やっかいなものです。
善悪を考えるときのものさしは、どこに求めたら良いのでしょうか。これを倫理という学問です。倫理は、人の道であり、してはならない欲を取り払わないと生けないのです。その欲を取り払うには、どうすればいいのでしょう・これがお釈迦さんの教えです。
お釈迦さんは、生老病死の苦しみを感じられたから、家を出て、難行苦行の道をあゆみ、悟りを開かれたのです。
悟りを開かれてからは、人々に寄り添い、困っていること、悩んでいることに、アドバイスをされて。ひとびとに慕われるようになったのです。苦しみとは思い通りにならないことです。思い通りになれば、苦しみを味わうことがないが、思い通りにならないから、苦しみことを悟られ他のです。
欲の有る人生とは,つらいものです。だけど、この欲を押さえて暮らしてこそ、人はすくわれるのです。
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10:19
今朝は、朝日がまぶしく,ご本尊の阿弥陀様を照らしているなか、法華経の寿量品を読寿していているところ、八十歳の信者さんがお参りにこられた。ほんとありがたいことです。お茶を入れてあげてしばらく、おしゃべりに花が咲いていました。そのひとは、毎朝三時に起床して、今日のするべきことを整理して、そつなく暮らすことだといっておらえました。当に、そうですね、朝が早いと、身体にいいですし、するべきことをして
一日を過ごすという生活習慣は、いきる上に置いて、余裕が持てるということです
最近の若者は、余裕を持たないで、生きているから、イライラがつもり、すぐきげんが悪くなり、他人に当たるという悪い影響をあたえ、、ものごとの成就ができないまま、夜遅くまで、仕事に励むという悪い生活習慣となる。
あさおきは三文の得という言葉があるように、身体に良くて、寿命が延びるといいます。
一日を過ごすという生活習慣は、いきる上に置いて、余裕が持てるということです
最近の若者は、余裕を持たないで、生きているから、イライラがつもり、すぐきげんが悪くなり、他人に当たるという悪い影響をあたえ、、ものごとの成就ができないまま、夜遅くまで、仕事に励むという悪い生活習慣となる。
あさおきは三文の得という言葉があるように、身体に良くて、寿命が延びるといいます。
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08:13
地獄と極楽はどこにあると思いますか。
普通なら、あの世にあると答えるでしょう。
だけど、仏教では、自分の心の中にあるととかれています。
地獄を奈落に落ちるといいます。これを自業苦という言葉に表れます。自分の業で苦しんでいるのです。
有る武士が、禪師に地獄はどこにあると聞いたら、己のこころじゃといわれて、おのれ、わしを馬鹿にしおってとその禪師に刀で切りつけたとき、禪師は「渇」といって、たしなめたのです。
いわゆる、自分の心になかに、業があって、怒りが地獄におとされるのです。
次に極楽を「業苦楽」というように、業苦を楽にするときに極楽の境地に至れるのです。
つまり、自分の心の中にあるのです。自分の業が生み出すのです。業は、やっかいないものです。この業を消し去ることができません、
この業を押さえれるのが仏の教えなのです。
お経には、不思議な力あるのです
普通なら、あの世にあると答えるでしょう。
だけど、仏教では、自分の心の中にあるととかれています。
地獄を奈落に落ちるといいます。これを自業苦という言葉に表れます。自分の業で苦しんでいるのです。
有る武士が、禪師に地獄はどこにあると聞いたら、己のこころじゃといわれて、おのれ、わしを馬鹿にしおってとその禪師に刀で切りつけたとき、禪師は「渇」といって、たしなめたのです。
いわゆる、自分の心になかに、業があって、怒りが地獄におとされるのです。
次に極楽を「業苦楽」というように、業苦を楽にするときに極楽の境地に至れるのです。
つまり、自分の心の中にあるのです。自分の業が生み出すのです。業は、やっかいないものです。この業を消し去ることができません、
この業を押さえれるのが仏の教えなのです。
お経には、不思議な力あるのです
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17:57
先日、私の尊敬する僧侶が、八十五歳で他界しました。
この方は私が住職になって、いつも善き相談相手で、僧侶の生きる道を教えていただきました。この人のおかげで、今の私があります。
そういう人がこの世におられないのは、悲しいです。
私も、多くの方の葬儀にであっていますが、もう二度と出会いないのが悲しく、諸行無常の世を恨みます。
お釈迦様は、この苦しみを説いたのであります。この世に生まれるものすべて、いつかは別れなければならない。
そうであるから、せいっぱいいきねばならないのです。怠けてはいけないのです。そして、自分の人生を後世に受け継いでもらえることが、
いいのです。なかなかできませんが。
今、家族葬がはやっていますが、あれは寂しすぎます。その人の縁があるひとの別れくらい会ってほしいです。
なぜなら、その人の行動で、他の人が影響を受け、成長しているからです。其れが感謝のこころです。人は絶対に一人では生きられない。
誰かに支えてもらっているし、誰かに生きているのです。そう思うと、感謝こそが、その人を成長させるのです。
今の人は、あまりにも感謝のこころをわすれています。これでは、生きやすい社会ができないと思います。
この方は私が住職になって、いつも善き相談相手で、僧侶の生きる道を教えていただきました。この人のおかげで、今の私があります。
そういう人がこの世におられないのは、悲しいです。
私も、多くの方の葬儀にであっていますが、もう二度と出会いないのが悲しく、諸行無常の世を恨みます。
お釈迦様は、この苦しみを説いたのであります。この世に生まれるものすべて、いつかは別れなければならない。
そうであるから、せいっぱいいきねばならないのです。怠けてはいけないのです。そして、自分の人生を後世に受け継いでもらえることが、
いいのです。なかなかできませんが。
今、家族葬がはやっていますが、あれは寂しすぎます。その人の縁があるひとの別れくらい会ってほしいです。
なぜなら、その人の行動で、他の人が影響を受け、成長しているからです。其れが感謝のこころです。人は絶対に一人では生きられない。
誰かに支えてもらっているし、誰かに生きているのです。そう思うと、感謝こそが、その人を成長させるのです。
今の人は、あまりにも感謝のこころをわすれています。これでは、生きやすい社会ができないと思います。
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17:42
先日、私の尊敬する僧侶が、八十五歳で他界しました。
この方は私が住職になって、いつも善き相談相手で、僧侶の生きる道を教えていただきました。この人のおかげで、今の私があります。
そういう人がこの世におられないのは、悲しいです。
私も、多くの方の葬儀にであっていますが、もう二度と出会いないのが悲しく、諸行無常の世を恨みます。
お釈迦様は、この苦しみを説いたのであります。この世に生まれるものすべて、いつかは別れなければならない。
そうであるから、せいっぱいいきねばならないのです。怠けてはいけないのです。そして、自分の人生を後世に受け継いでもらえることが、
いいのです。なかなかできませんが。
今、家族葬がはやっていますが、あれは寂しすぎます。その人の縁があるひとの別れくらい会ってほしいです。
なぜなら、その人の行動で、他の人が影響を受け、成長しているからです。其れが感謝のこころです。人は絶対に一人では生きられない。
誰かに支えてもらっているし、誰かに生きているのです。そう思うと、感謝こそが、その人を成長させるのです。
今の人は、あまりにも感謝のこころをわすれています。これでは、生きやすい社会ができないと思います。
この方は私が住職になって、いつも善き相談相手で、僧侶の生きる道を教えていただきました。この人のおかげで、今の私があります。
そういう人がこの世におられないのは、悲しいです。
私も、多くの方の葬儀にであっていますが、もう二度と出会いないのが悲しく、諸行無常の世を恨みます。
お釈迦様は、この苦しみを説いたのであります。この世に生まれるものすべて、いつかは別れなければならない。
そうであるから、せいっぱいいきねばならないのです。怠けてはいけないのです。そして、自分の人生を後世に受け継いでもらえることが、
いいのです。なかなかできませんが。
今、家族葬がはやっていますが、あれは寂しすぎます。その人の縁があるひとの別れくらい会ってほしいです。
なぜなら、その人の行動で、他の人が影響を受け、成長しているからです。其れが感謝のこころです。人は絶対に一人では生きられない。
誰かに支えてもらっているし、誰かに生きているのです。そう思うと、感謝こそが、その人を成長させるのです。
今の人は、あまりにも感謝のこころをわすれています。これでは、生きやすい社会ができないと思います。
Posted by 住職日記 at
17:42
先日、私の尊敬する僧侶が、八十五歳で他界しました。
この方は私が住職になって、いつも善き相談相手で、僧侶の生きる道を教えていただきました。この人のおかげで、今の私があります。
そういう人がこの世におられないのは、悲しいです。
私も、多くの方の葬儀にであっていますが、もう二度と出会いないのが悲しく、諸行無常の世を恨みます。
お釈迦様は、この苦しみを説いたのであります。この世に生まれるものすべて、いつかは別れなければならない。
そうであるから、せいっぱいいきねばならないのです。怠けてはいけないのです。そして、自分の人生を後世に受け継いでもらえることが、
いいのです。なかなかできませんが。
今、家族葬がはやっていますが、あれは寂しすぎます。その人の縁があるひとの別れくらい会ってほしいです。
なぜなら、その人の行動で、他の人が影響を受け、成長しているからです。其れが感謝のこころです。人は絶対に一人では生きられない。
誰かに支えてもらっているし、誰かに生きているのです。そう思うと、感謝こそが、その人を成長させるのです。
今の人は、あまりにも感謝のこころをわすれています。これでは、生きやすい社会ができないと思います。
この方は私が住職になって、いつも善き相談相手で、僧侶の生きる道を教えていただきました。この人のおかげで、今の私があります。
そういう人がこの世におられないのは、悲しいです。
私も、多くの方の葬儀にであっていますが、もう二度と出会いないのが悲しく、諸行無常の世を恨みます。
お釈迦様は、この苦しみを説いたのであります。この世に生まれるものすべて、いつかは別れなければならない。
そうであるから、せいっぱいいきねばならないのです。怠けてはいけないのです。そして、自分の人生を後世に受け継いでもらえることが、
いいのです。なかなかできませんが。
今、家族葬がはやっていますが、あれは寂しすぎます。その人の縁があるひとの別れくらい会ってほしいです。
なぜなら、その人の行動で、他の人が影響を受け、成長しているからです。其れが感謝のこころです。人は絶対に一人では生きられない。
誰かに支えてもらっているし、誰かに生きているのです。そう思うと、感謝こそが、その人を成長させるのです。
今の人は、あまりにも感謝のこころをわすれています。これでは、生きやすい社会ができないと思います。
Posted by 住職日記 at
08:43
当山にお参りする方が少し増えた様に思います。大変ありがたいことです。
なぜ、お寺参りするかですが、
京都などは、歴史があり、お寺には新鮮さが有るから、お参りされるのだとおもいます。其れと昔から駆け込み寺という言葉が、残されています。なにか困りごとがあったら、お寺にお参りされるときいたことがあります。
そうなんです。お寺に行けば、助けてくれるという願望があります。
今は、お寺はなんの意味を持たない人々が増えてきているいるように思います。なぜか、通信機能が充実してきているから、お寺に行かなくても、困りごとを解決してくれるからです。大変便利になりました。アナログからデジタルに進歩したことが大きな原因です。
本尊様を拝むという行為が意味がなくなったからではないでしょうか。
また、歴史的産物がないのも魅力がなくなったことから、お寺参りが減少したのだと思います。
そして、お寺に住職がおられないことが大きいです。いつ行っても、留守にしている。
其れは、経済的にお寺では生活ができないから、留守がちで、相談しようと思ってもいないことが大きな原因でです。
当山では、若いころは、福祉の仕事をして、妻と子どもを守ってきました、それが子どもが独立してからは、なんとかお寺だけで生活できるようになったので、仕事を退職して、お寺一本でやっています
今では、朱印で来られる人々とおしゃべりをして、なんとか生計を立てています。
もし朱印がなければ、生活できないでしょう。
人の縁というのはありがたいです。縁で、お寺を守ることができます。
奉仕のこころです。人の為に役立つという思いが、今、私を支えていただいています。
お寺は、住みにくいところでもあります、なぜなら、住まいが古く、冬は寒く、夏は暑い。快適な暮らしにはほど遠いです。ですが、歴史有る建物を守ることは、人の命を守ることであります。世間は、人の幸せを守ることで、経済がよくなり、お金も稼げて、幸せにつながるからです。
古いものを大切にするこころが、現代社会では失われている気がします。僧侶は、その心を喚起させる役割があります。
いかにこころ安らかに暮らせるかを見守り、育てることで、社会は、健全かするのです。
僧侶は、最低限の暮らしの中から、人に喜んでもらえることです。だから、お寺は、開放して行かねばならないとかんがえています
。
なぜ、お寺参りするかですが、
京都などは、歴史があり、お寺には新鮮さが有るから、お参りされるのだとおもいます。其れと昔から駆け込み寺という言葉が、残されています。なにか困りごとがあったら、お寺にお参りされるときいたことがあります。
そうなんです。お寺に行けば、助けてくれるという願望があります。
今は、お寺はなんの意味を持たない人々が増えてきているいるように思います。なぜか、通信機能が充実してきているから、お寺に行かなくても、困りごとを解決してくれるからです。大変便利になりました。アナログからデジタルに進歩したことが大きな原因です。
本尊様を拝むという行為が意味がなくなったからではないでしょうか。
また、歴史的産物がないのも魅力がなくなったことから、お寺参りが減少したのだと思います。
そして、お寺に住職がおられないことが大きいです。いつ行っても、留守にしている。
其れは、経済的にお寺では生活ができないから、留守がちで、相談しようと思ってもいないことが大きな原因でです。
当山では、若いころは、福祉の仕事をして、妻と子どもを守ってきました、それが子どもが独立してからは、なんとかお寺だけで生活できるようになったので、仕事を退職して、お寺一本でやっています
今では、朱印で来られる人々とおしゃべりをして、なんとか生計を立てています。
もし朱印がなければ、生活できないでしょう。
人の縁というのはありがたいです。縁で、お寺を守ることができます。
奉仕のこころです。人の為に役立つという思いが、今、私を支えていただいています。
お寺は、住みにくいところでもあります、なぜなら、住まいが古く、冬は寒く、夏は暑い。快適な暮らしにはほど遠いです。ですが、歴史有る建物を守ることは、人の命を守ることであります。世間は、人の幸せを守ることで、経済がよくなり、お金も稼げて、幸せにつながるからです。
古いものを大切にするこころが、現代社会では失われている気がします。僧侶は、その心を喚起させる役割があります。
いかにこころ安らかに暮らせるかを見守り、育てることで、社会は、健全かするのです。
僧侶は、最低限の暮らしの中から、人に喜んでもらえることです。だから、お寺は、開放して行かねばならないとかんがえています
。
Posted by 住職日記 at
09:06