なかなか、梅雨が明けない。もう7月が終わろうとしているのに。
野菜の生育が思わしくないから、野菜の値が高くなっている。いまや、本当に生きにくい。それにコロナの感染が拡大している。まさに地獄の世であります。寝ても覚めても、コロナばかり、いつ何時、私に感染することを恐れています。そんな不安な心でいると、顔も暗くなり、相手に対して失礼に思う。もっと笑顔でいなければ、だめだと思うが、そうなれない。
先日、久しぶりに電話を頂き、悩みはあるといわれて、飛んでいき、お出会い致しました。
しばらく、お手伝いをして、お茶を飲みながら、話をしていました。
なにげない話をしていうるうちに、悩みがなくなり、その人は笑顔になり、ほっと安心しました。
人は,なやみおおく生きていいます。僧侶は、その人々に寄り添うことが大切だとおもいます。
野菜の生育が思わしくないから、野菜の値が高くなっている。いまや、本当に生きにくい。それにコロナの感染が拡大している。まさに地獄の世であります。寝ても覚めても、コロナばかり、いつ何時、私に感染することを恐れています。そんな不安な心でいると、顔も暗くなり、相手に対して失礼に思う。もっと笑顔でいなければ、だめだと思うが、そうなれない。
先日、久しぶりに電話を頂き、悩みはあるといわれて、飛んでいき、お出会い致しました。
しばらく、お手伝いをして、お茶を飲みながら、話をしていました。
なにげない話をしていうるうちに、悩みがなくなり、その人は笑顔になり、ほっと安心しました。
人は,なやみおおく生きていいます。僧侶は、その人々に寄り添うことが大切だとおもいます。
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09:48
ぴえんは、うれしいこと、悲しいこと、つらいことなど泣きたいほどの感情ほどを伝える言葉です。
それがぴえんであり、人は生きるには、その苦しみはつきものです。そのつきものがご縁で、生きていくご恩にかわるのです。
もし、生まれて以来、なにも味わうことがなければ、むなしさしか残りません。やっぱり生きているのなら、暑い、寒い、つらいことがあってこそ、生きる力になるのです。愛する人に出会い、別れるのも試練です。会いたくない人に出会うのも試練です。これらを乗り越えることができたら、
御先祖様のご恩を感じることがでできれば、最高な生き方はできるのです。
それがぴえんであり、人は生きるには、その苦しみはつきものです。そのつきものがご縁で、生きていくご恩にかわるのです。
もし、生まれて以来、なにも味わうことがなければ、むなしさしか残りません。やっぱり生きているのなら、暑い、寒い、つらいことがあってこそ、生きる力になるのです。愛する人に出会い、別れるのも試練です。会いたくない人に出会うのも試練です。これらを乗り越えることができたら、
御先祖様のご恩を感じることがでできれば、最高な生き方はできるのです。
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14:54
この世の中、すべては現象は、常に動き、とどまることを知らない。そして、人間は年を取っていく。
ああ、悲しいのでしょう。うれしいこと、悲しいことが起こっても、いつのまにか、過去になってしまう。そこに、後悔という心が生じて、いつまでも引きずる。これが人生です。
我慢という言葉は、法華経というお経に出てきます。読んで字の如く、堪え忍ぶという意味です。でもお経では違うのです。本当の意味は、自分ののことをえらく、思い、他人を軽く見ることです。高慢とか過慢といい、我執、強情のとりこになった心の姿です。其れがさらに増上慢となったり、卑慢といって、自分の立場をかばい、醜い心になることです。
この心をお釈迦様は戒めているのです。人は、まじめに、正しい心になることが、心安らかに暮らせるのです、おごり、高ぶる心こそが悪ナル心をもち、他人を不幸にするである。人はこの世にいることは、他人を幸せにすることが、人生の修行であり、子孫が繁栄できるのである
ああ、悲しいのでしょう。うれしいこと、悲しいことが起こっても、いつのまにか、過去になってしまう。そこに、後悔という心が生じて、いつまでも引きずる。これが人生です。
我慢という言葉は、法華経というお経に出てきます。読んで字の如く、堪え忍ぶという意味です。でもお経では違うのです。本当の意味は、自分ののことをえらく、思い、他人を軽く見ることです。高慢とか過慢といい、我執、強情のとりこになった心の姿です。其れがさらに増上慢となったり、卑慢といって、自分の立場をかばい、醜い心になることです。
この心をお釈迦様は戒めているのです。人は、まじめに、正しい心になることが、心安らかに暮らせるのです、おごり、高ぶる心こそが悪ナル心をもち、他人を不幸にするである。人はこの世にいることは、他人を幸せにすることが、人生の修行であり、子孫が繁栄できるのである
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08:19
今年もまた暑い夏がやってきます。
人々の家には、精霊棚を作り、御先祖様をお迎えをおむかえします。お供えするために、畑で、お花を作り、畑では、キュウリ、なす、トウモロコシなどの野菜を作ります。
これは、日本の伝統ではないかと考えます。「千年の王国」という言葉があるとおり、江戸時代からずーと続けてこられた伝統行事であります。おしょらいさんをオ迎えするということは、家の仏様を大切にしていることで、家族の平安、地域の平安、そして、国のへ平安を求めてきたからこそ、今、現在があるのです。もし仏様を大切にしなかったら、この世は地獄の世界とナルのだと思います。仏様に見守れているから、人々は幸せにくらせるのだと信じています。
私のお寺では、、8月に入って、お墓掃除に始まって、墓参り、そして棚経と、仏様を迎えて、そして16日に送り火に、天上界に送ります。
この一連の行事を行うことで、疫病から守り、そして、人々の幸せを願うために行うものです。
どうか、今年はコロナ渦のなかでのお盆ですが、しっかり勤めて頂きたいと願います。
人々の家には、精霊棚を作り、御先祖様をお迎えをおむかえします。お供えするために、畑で、お花を作り、畑では、キュウリ、なす、トウモロコシなどの野菜を作ります。
これは、日本の伝統ではないかと考えます。「千年の王国」という言葉があるとおり、江戸時代からずーと続けてこられた伝統行事であります。おしょらいさんをオ迎えするということは、家の仏様を大切にしていることで、家族の平安、地域の平安、そして、国のへ平安を求めてきたからこそ、今、現在があるのです。もし仏様を大切にしなかったら、この世は地獄の世界とナルのだと思います。仏様に見守れているから、人々は幸せにくらせるのだと信じています。
私のお寺では、、8月に入って、お墓掃除に始まって、墓参り、そして棚経と、仏様を迎えて、そして16日に送り火に、天上界に送ります。
この一連の行事を行うことで、疫病から守り、そして、人々の幸せを願うために行うものです。
どうか、今年はコロナ渦のなかでのお盆ですが、しっかり勤めて頂きたいと願います。
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10:20
人間というのは、妄想を見たり、執着して、苦しみあうものです。
私も、若い時から、妄想を見て、現実から逃避したものです。妄想を見ているときは、友達と話すことを拒否したりして、孤独になります。其れが私の学生時代でした。異性からモテることなく、常にコンプレックスの塊で、いい青春時代を送ったことがなかったです。
しかも貧乏でしたので、欲しいものが買うことなく、趣味もなく、時間をもてあました記憶があります。だけど其れでと良かったのだと思います。いまでは、他人の幸せを考えています。もし、欲しいものを手に入れられたら、お寺を継いでいなかったでしょう。
執着しないで生きていれば、苦しみも半減します。楽です。最低の生活ができていれば、いいですね。
車は贅沢品ですが、僧侶としていきていくには、必要なものです。車がなければ布教活動ができません。車は助かります。だけど車は、事故に遭う危険があるので、損害を被りますので、注意しないと大変なことになり、僧侶の暮らしも成り立ちません。
この世にいきていくには、感謝の心と謙虚な心が持たなければ、幸せな暮らしができないものです。おごりの心では絶対に生きていけないと考えます。
私も、若い時から、妄想を見て、現実から逃避したものです。妄想を見ているときは、友達と話すことを拒否したりして、孤独になります。其れが私の学生時代でした。異性からモテることなく、常にコンプレックスの塊で、いい青春時代を送ったことがなかったです。
しかも貧乏でしたので、欲しいものが買うことなく、趣味もなく、時間をもてあました記憶があります。だけど其れでと良かったのだと思います。いまでは、他人の幸せを考えています。もし、欲しいものを手に入れられたら、お寺を継いでいなかったでしょう。
執着しないで生きていれば、苦しみも半減します。楽です。最低の生活ができていれば、いいですね。
車は贅沢品ですが、僧侶としていきていくには、必要なものです。車がなければ布教活動ができません。車は助かります。だけど車は、事故に遭う危険があるので、損害を被りますので、注意しないと大変なことになり、僧侶の暮らしも成り立ちません。
この世にいきていくには、感謝の心と謙虚な心が持たなければ、幸せな暮らしができないものです。おごりの心では絶対に生きていけないと考えます。
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10:01
人間というのは、妄想を見たり、執着して、苦しみあうものです。
私も、若い時から、妄想を見て、現実から逃避したものです。妄想を見ているときは、友達と話すことを拒否したりして、孤独になります。其れが私の学生時代でした。異性からモテることなく、常にコンプレックスの塊で、いい青春時代を送ったことがなかったです。
しかも貧乏でしたので、欲しいものが買うことなく、趣味もなく、時間をもてあました記憶があります。だけど其れでと良かったのだと思います。いまでは、他人の幸せを考えています。もし、欲しいものを手に入れられたら、お寺を継いでいなかったでしょう。
執着しないで生きていれば、苦しみも半減します。楽です。最低の生活ができていれば、いいですね。
車は贅沢品ですが、僧侶としていきていくには、必要なものです。車がなければ布教活動ができません。車は助かります。だけど車は、事故に遭う危険があるので、損害を被りますので、注意しないと大変なことになり、僧侶の暮らしも成り立ちません。
この世にいきていくには、感謝の心と謙虚な心が持たなければ、幸せな暮らしができないものです。おごりの心では絶対に生きていけないと考えます。
私も、若い時から、妄想を見て、現実から逃避したものです。妄想を見ているときは、友達と話すことを拒否したりして、孤独になります。其れが私の学生時代でした。異性からモテることなく、常にコンプレックスの塊で、いい青春時代を送ったことがなかったです。
しかも貧乏でしたので、欲しいものが買うことなく、趣味もなく、時間をもてあました記憶があります。だけど其れでと良かったのだと思います。いまでは、他人の幸せを考えています。もし、欲しいものを手に入れられたら、お寺を継いでいなかったでしょう。
執着しないで生きていれば、苦しみも半減します。楽です。最低の生活ができていれば、いいですね。
車は贅沢品ですが、僧侶としていきていくには、必要なものです。車がなければ布教活動ができません。車は助かります。だけど車は、事故に遭う危険があるので、損害を被りますので、注意しないと大変なことになり、僧侶の暮らしも成り立ちません。
この世にいきていくには、感謝の心と謙虚な心が持たなければ、幸せな暮らしができないものです。おごりの心では絶対に生きていけないと考えます。
Posted by 住職日記 at
17:10
如在という言葉がお経のあちらこちらに出てきます。「居ますが如く」ということであり、先祖供養も亡き方が居ますがごとくに行うことであります。仏様にごはんやお茶をお供えすることは、ここに御先祖様すなわち亡き方がおられることになるのです。今ここに大切な方がいらしゃるつもりで、供養をする。そうすることで供養する側の心も、自ずから、磨かれて行くのです。
今ここに自分があるということは決して偶然ではないのです。御先祖様を始めとした無数のご縁の中に生かされているのだと感謝の気持ちがわいていくくるのです。
先祖供養を通じて、今ここに自分が生きていることの尊さに気づき、自らわき起こってくるならば、そのひとの本当の意味での幸せな人です。
供給資養という言葉の通り、御先祖様にいますがごとくにお膳やお花をお供えする。これを供給するといいます。これを供養といい、自らの心が養われて行くのです。
また、毎日の生活の中で苦しみや迷いがあるときに、心静かに「今ここで、故人様が私の姿を見たらどう思うか」ということを思いはせることではないでしょうか。
自らの日々の生活を振り返り、自分が頂いた「いのち」を「今ここ」を一心に精一杯生きていく。これが供養であり、供給資養というものです。
今ここに自分があるということは決して偶然ではないのです。御先祖様を始めとした無数のご縁の中に生かされているのだと感謝の気持ちがわいていくくるのです。
先祖供養を通じて、今ここに自分が生きていることの尊さに気づき、自らわき起こってくるならば、そのひとの本当の意味での幸せな人です。
供給資養という言葉の通り、御先祖様にいますがごとくにお膳やお花をお供えする。これを供給するといいます。これを供養といい、自らの心が養われて行くのです。
また、毎日の生活の中で苦しみや迷いがあるときに、心静かに「今ここで、故人様が私の姿を見たらどう思うか」ということを思いはせることではないでしょうか。
自らの日々の生活を振り返り、自分が頂いた「いのち」を「今ここ」を一心に精一杯生きていく。これが供養であり、供給資養というものです。
Posted by 住職日記 at
08:30
今年もまもなくお盆がやってきます。だけどコロナ渦で大変なお盆になりそうです。
お盆というと昔から「盆と正月が一緒にやってきた」という言葉があります。
大忙しいになる。とてもうれしいことやめでたいことという意味で日本人はよく言います。
また、盆と正月は帰省することで、電車や高速道路が混み合います。そんな思い出をあるのが日本人ではないかと思います。
故郷をはなれた人々は、重い荷物をもって、里帰りをして、家族の再会に喜び合う時です。ところが、今年はコロナという災いで、
お盆の過ごし方が変えなければならないのが、寂しいことであります。
なんとか、今年のお盆は、家族の再会を果たして、コロナに負けないようにしてほしいと祈りたいとおもっています。
ふるさとのお仏壇やお墓参りをして、御先祖様にお祈りしましょう。
御先祖様があっての私がいます
お盆というと昔から「盆と正月が一緒にやってきた」という言葉があります。
大忙しいになる。とてもうれしいことやめでたいことという意味で日本人はよく言います。
また、盆と正月は帰省することで、電車や高速道路が混み合います。そんな思い出をあるのが日本人ではないかと思います。
故郷をはなれた人々は、重い荷物をもって、里帰りをして、家族の再会に喜び合う時です。ところが、今年はコロナという災いで、
お盆の過ごし方が変えなければならないのが、寂しいことであります。
なんとか、今年のお盆は、家族の再会を果たして、コロナに負けないようにしてほしいと祈りたいとおもっています。
ふるさとのお仏壇やお墓参りをして、御先祖様にお祈りしましょう。
御先祖様があっての私がいます
Posted by 住職日記 at
17:50
コロナ渦、そして大雨による災害。ほんと苦しみ多いことがたくさんあります。聞くどころにによると、二年前、大雨で、大雨で、飲食店が土石流で流されて、もとに戻したのに、また、今回の大雨で、流されて人の苦情を聞きました。悲しいです。どうして私だけに災害に二度会わなければならないのか怒りを覚えます。
この世の中、苦しみが多いです。思い通りにはならないです。此が娑婆世界です。苦しみに耐えることが生きるということです。人は苦しみに耐えないと楽しみが来ません。そんな世の中に、なぜ生きるのでしょう。
つらいことばかりです。でも、生きてください、私たちは、生かされているのです
誰にですか。御先祖様です。御先祖様は、苦労して家族を守り、子孫のために、どんな苦労を惜しみませんでした。そのおかげで今があるんです。だから、苦しみに耐えるべきです。
私は、なんの才能も持ち合わせていません。だけど、御先祖様のために生きなければならないと考えて居ます。せっかくいただいたこの命無駄にしてならない。
この世の中、苦しみが多いです。思い通りにはならないです。此が娑婆世界です。苦しみに耐えることが生きるということです。人は苦しみに耐えないと楽しみが来ません。そんな世の中に、なぜ生きるのでしょう。
つらいことばかりです。でも、生きてください、私たちは、生かされているのです
誰にですか。御先祖様です。御先祖様は、苦労して家族を守り、子孫のために、どんな苦労を惜しみませんでした。そのおかげで今があるんです。だから、苦しみに耐えるべきです。
私は、なんの才能も持ち合わせていません。だけど、御先祖様のために生きなければならないと考えて居ます。せっかくいただいたこの命無駄にしてならない。
Posted by 住職日記 at
08:07