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Posted by 滋賀咲くブログ at

2016年10月31日   父母の恩

一切の善男子、善女人よ
父に慈恩あり
母に悲恩あり
その故は、人のこの世に生まれるは、宿業の因として父母の縁とせり
私たちは、両親の不思議な出会いの縁で、私が存在しているのです。自分勝手では生まれて来ないです。ところが今の社会はどうでしょう。我がもので生きているのではありませんか。自分の欲望を満たすために他人を犠牲にしていることは悲しい。
 父母の縁から、友だちの縁、上司との縁、地域の縁へと広がっていくのであります。縁は異なもの味な物というように、不思議な縁で人間は、成長し、向上するのです。そうして出生して行くのです。出世したら、お陰様を忘れてしまうから、地獄にそこに落とされるのです。
縁には、おかげさまがつきものです。自分中心では生きていけません。
父は、思いやりの恩があり、母に育ての恩がある。これを忘れては行かないのが現実です。



Posted by 住職日記 at 08:15

2016年10月29日   仏様の世界

家族が病気を患うと、家族の協力が必要になり、家族みんなの生活が関わってきます。
そこで、仏壇は住居の魂です。仏壇に手を合わせるとき、ご本尊、ご先祖も、お参りされるあなたの心のよりどころになります。
 仏壇は常に、きれいにし、お水、ご飯、お花を捧げます。
 朝夕のお参りに灯明をともし、線香をあげ、合掌礼拝します。
そして仏様の願いとご先祖様の願いが宿っています。手を合わす事は、ご先祖様とあなたに手を合わせていらっしゃいます。
 右手をお釈迦様、左手を自分です。お釈迦様の教えと私たちの生き方が一体になるありがたい瞬間です。きちんと正座し数珠を手にお参りにしますと心が安らかになる不思議があります。

仏様、拝む姿が仏様。
仏様を拝む自分の姿も仏様です。自分のこころに仏様が宿る時、きっと自分もお顔も尊く、美しく見えてきます。
世界中の人々が、手を合わすあいさつが広がったら、素晴らしいでしょう。


Posted by 住職日記 at 08:08

2016年10月27日   仏法は無我にて候

仏法は、無我の境地に至ることではないかと考えます。ということは人間は、煩悩を持つ生き物です。煩悩があるが故に、苦があり、悩み、そしてのたうちまわるのです。反省、座禅をして、生きなおすことが出来る唯一の道なのです。さらに言えば、相手を立て、人を立てる。これが無我の境地なのです。理屈を並べていては無我ではない。相手の身、人の身、その人の身になりきってあげることです。
お釈迦様は、徹頭徹尾その姿から何もかもいいようがないまでも、あたたかな心配り、気遣いをの人々のみこころの隅々にまで行き届かせてくださっています。
 私も、お坊さんです。かたよることなく、中道に生きることです。目は半眼の境地です。開けているかあいていない心にいることです。
 みんなが幸せに暮らせるように、仏法を説き、安心なる心を持ってもらうこそ、仏の無我の境地で有ります。



Posted by 住職日記 at 08:55

2016年10月26日   参詣者との出会い

今日は、朝から近江八幡のある寺の住職様と引き継ぎに出て、11時半にもどってきたら、グッとタイミングで、参詣者と出会いました。これはまさしく仏様の導きではないかと感動しました。ほんと不思議な出会いでした。
 本堂を開け、焼香してもらい、多くの仏様とご対面していただき、正しい智慧を身につけていただきました。


Posted by 住職日記 at 18:27

2016年10月25日   なぜ人間は不平不満を抱くにでしょうか。

 不平不満は、欲を多く持ちすぎることではないかと考えます。自分の思い通りにならないから、不平不満をもつ。
誰ももっていない車、ベンツなどの高級車、出世欲、欲しいものが手に入らないことなど深刻な悩みを持っている人は、常に不平不満を持ち、行き過ぎると他人に危害を与える。
 先日70代の高齢者が、不平不満で切れて、大変な事件が起こりました。高齢者といえば、物事を知り尽くし、多くの経験や教訓を若い世代の人々に戒めていただかなければいけないのに、自らが切れて、他人に危害を加えた。ほんと恐ろしい社会です。これがはびこると、安心安全に生きていけない。常に疑心暗鬼でもって生きて行くことに不安を感じます。
 今、仏の教えを多くの人々に伝える必要があるのではないかと思い、お寺に朱印などにお参りに来られる方には、お話、色紙に文言を書いて、差し上げています。お近くまで来られたときには、お声をかけて下さい。


Posted by 住職日記 at 07:19

2016年10月24日   悪魔の退散

 所得の反対を無所得という言葉が経文に出てくる。今、所得がないと生きて行くことが難しいという。幸せはお金持ちなることひと昔はよく言われた。ところがどうでしょう。お金になると、いろんな不幸が起こってくる。お金が悪魔となって、私たちの心をむしばむ。むしばわれたら、起こって欲しくない不幸が起こっている。大問題です。
ところが、つつましく生きていおられる家族を見ますと、それなりに幸せな人生を歩んでおられる。
 煩悩こそ悪魔でないかと思います。その悪魔にささやかれないように、戒めて生きて行けば、きっと幸せな人生を歩むことができると信じます。
そのしあわせを呼ぶのは、般若心経を詠む、写す、覚えることで有ります。


Posted by 住職日記 at 07:22

2016年10月23日   迷いとは

人は、誰でも迷います。迷いはくせ者です。そして離れがたい魅力を持っていますので、迷いが生じる。身を捨ててこれに溺れる人がいます。反対に迷いをおそれ、迷いを警戒していても、知らぬ間にそのとりこになるのが、人間の運命です。
 仏の教えは、この迷いを退治することが出来ます。
迷いは、月にかかったくものようなものということになりましょう。雲が月にかかれば、正しい光がさえぎられるから迷雲といい、まもなくすれば、すっきり晴れるものです。絶対に永久に隠しおおせるのではない。雲が厚くてもやがて晴れます。これを忍辱といいます。その時を耐え忍べば、善い光が指します。
 人は慈悲と忍辱で生きて行くと、必ず迷いが晴れて、諸願成就することでしょう。


Posted by 住職日記 at 19:03

2016年10月21日   常楽我浄について

常楽我浄とは、
常は、このよの無常を知る、平常心をもって生きること
楽は、生きるというのは苦である。その苦から学び取ること
我は、我をはっては生きられない。縁に助けられて生きることを知る。
浄は、苦楽に生きれば、平等の智慧と慈悲でもって生きてください。
この四つの徳を積む事が出来れば、幸せに生きられる




Posted by 住職日記 at 07:37

2016年10月21日   観音様を信じてください

 観音様を信じてくださいということは、十句観音経に説かれています。
 私は観音様を信じ、観音様にすべてを任せます。私は仏にさせていただく因と縁を抱いております。
 仏の教えを信じ、また教えを求めていく人々とめぐり逢えるお陰で
常、楽、我、浄の四つの徳を念じます。
 そして朝な夕な観世音を念じます。
この一念は、わたしは心からでなく、心中に秘められている。これが、仏の願いでしょう。
つまり、念ずる心が、目に見えないものを信ずることなのである。そうすれば、大願成就することができるという話です。
 人は、幸せにいきて、天命を全う出来るのでしょう。


Posted by 住職日記 at 07:29

2016年10月20日   父母恩重経の教え

人間は、父母の恩によるものと説かれています。キリストでは、アダムとイブが父母となり、人類の起こりと言われています。わたしも父母の恩で、このよに存在しています。そうでなければ、存在しないのであります。だから、命を大切にして欲しい。
父母恩重経に次のように説かれています。
 一切の善男子、善女人よ。父に慈恩あり、母に悲恩あり、それ故に人はこのよに生るるは、宿業を因として父母を縁とせり。父にあらざれば生まれず、母にあらざれば育てられず。ここをもって気を父の胤(たね)に受けて、形を母の胎(たい)に托(たく)す・・・・。
というふうに父母の縁によりて、はじめてこのよに生まれ、したいことが出来るのである。
今は、現金がなければ、暮らすことが出来ないのが、非常に悲しい。
昔のような物物交換のくらしがなつかしい。
 要は、人と人とがふれあい、支え合いのくらしの町が出来るといいなと、考えています。


Posted by 住職日記 at 07:38