2月25日、62回の誕生日をむかえました。学生のころは、早く大人になりたいなと思って、卒業しました、そして働きました。結婚もできました。子どもも授かりました。そして、親となり、その子も大人になり、働いています。不思議なご縁を頂きました。そしてもう62歳。なんだかなと感じています。一歩、一歩、死に近づいています。悲しいですよ。あと何年生きられるのでしょうか。
先日、年配の僧侶の奥様が他界されました。その方とはほんと懇意にさせていただいていましたので、訃報を聞いて愕然しました。もうこれで出会ってお話をすることができないと思うとショックです。私もその身になることを感じたら、どうしようなく涙が出て止まりません。そうなんです。人はいつかはなくなるのです。私の母も、もうこのよにいません。会話をしょうとおもっても、できないのが、寂しいです。私が死んだらどうなるでしょうね。世の中は、変わらずにあるんですね。と思います、私という人は、亡くなれば、いつかは家族からも忘れ去れていくんですね。そして、又いつか生まれてくるのでしょうかね。ああ、人生って、無常なのですね。
一度であったら、もう会うことがない、これが真実なのです。今、私と出会える人を大切にいきたいです。おかげさまで、朱印で出会える人があるのはたいへんありがたいです。
先日、年配の僧侶の奥様が他界されました。その方とはほんと懇意にさせていただいていましたので、訃報を聞いて愕然しました。もうこれで出会ってお話をすることができないと思うとショックです。私もその身になることを感じたら、どうしようなく涙が出て止まりません。そうなんです。人はいつかはなくなるのです。私の母も、もうこのよにいません。会話をしょうとおもっても、できないのが、寂しいです。私が死んだらどうなるでしょうね。世の中は、変わらずにあるんですね。と思います、私という人は、亡くなれば、いつかは家族からも忘れ去れていくんですね。そして、又いつか生まれてくるのでしょうかね。ああ、人生って、無常なのですね。
一度であったら、もう会うことがない、これが真実なのです。今、私と出会える人を大切にいきたいです。おかげさまで、朱印で出会える人があるのはたいへんありがたいです。
Posted by 住職日記 at
09:21
人間、誰もが健康てきな生き方をしたいものだ。だけどある日、突然,病気になって、死ぬ。又病気が回復せずに、なが患いをしなければならない。どんなに悲しいことか、思いをはせます。
私の母も、くも膜下出血で、倒れ、いのちだけは助けられましたが、8年間、寝たきりとなり、介護生活を送ることになりました。そのときは悲しかったです。享年65歳で亡くなり、今年で20年になります。
私の若いころは、たくさん心配をかけて、少しも楽をさせることなく。、老人の楽しみをすることなく、この世を去ったことに後悔があります。あのとき、もっと母のいうことを聞いておけば、亡くなることはなかったのに。とふと思い出されます。
そして、自分も60歳を超えました。皮肉なものです。私はいま、老人の仲間入りです。望まないのに老うのです。悲しいです。
人間って、悲しいです。幼いころ、大人になりたいと願望がありました。そして、大人になり、社会生活をしてきて、そしてやがて老いていく。ななんだかなとふと振り返ります。私の人生、これで良かったのだろうか、後悔するばかりです。
私のよかったことは、病気をしなかったことです。これだけです。病気になったら、家族はもちろん、不幸です。また、身体が自由に動かすことができなかったら、生きている意味が感じることができないでしょう。
健康という文字は、大切にしなければ生けないと思います。世の中には、いっぱい苦しんでいる人が入るのです。そう思うと、もったいないと感じます。健康だからこそ、しあわせな暮らしができるのです。希望も叶えることができるのです。
先日、私の友人がこの世を去りました。生きていさえいればいいのです。生きていて、健康であればなにもいらないです。命あっての人生ではないいでしょか
私の母も、くも膜下出血で、倒れ、いのちだけは助けられましたが、8年間、寝たきりとなり、介護生活を送ることになりました。そのときは悲しかったです。享年65歳で亡くなり、今年で20年になります。
私の若いころは、たくさん心配をかけて、少しも楽をさせることなく。、老人の楽しみをすることなく、この世を去ったことに後悔があります。あのとき、もっと母のいうことを聞いておけば、亡くなることはなかったのに。とふと思い出されます。
そして、自分も60歳を超えました。皮肉なものです。私はいま、老人の仲間入りです。望まないのに老うのです。悲しいです。
人間って、悲しいです。幼いころ、大人になりたいと願望がありました。そして、大人になり、社会生活をしてきて、そしてやがて老いていく。ななんだかなとふと振り返ります。私の人生、これで良かったのだろうか、後悔するばかりです。
私のよかったことは、病気をしなかったことです。これだけです。病気になったら、家族はもちろん、不幸です。また、身体が自由に動かすことができなかったら、生きている意味が感じることができないでしょう。
健康という文字は、大切にしなければ生けないと思います。世の中には、いっぱい苦しんでいる人が入るのです。そう思うと、もったいないと感じます。健康だからこそ、しあわせな暮らしができるのです。希望も叶えることができるのです。
先日、私の友人がこの世を去りました。生きていさえいればいいのです。生きていて、健康であればなにもいらないです。命あっての人生ではないいでしょか
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09:50
延命十句観音経の一説です。
観世音 南無仏 与仏有仏 与仏有縁 仏法僧縁 常楽我浄 朝念観世音 慕念観世音 念念従心起 念念不離心
観音様を信じてください。仏にめぐり会えるおかげで、常・楽・我・浄の四徳を私に抱かせるために.朝な夕なに観世音を念じます、
此の一念は、私のこころの中からでなく、私の心中に秘められ、心のねがいであります。と言う意味であります・
この世は無常であり無楽で有り、無我であり、不浄である。だからこそ欲を捨てていけば、必ず、命がいただけるとのことです。
煩悩があるから、人は苦しみ、突如にして命が終わる時を迎えるのです。
朝夕に観音経を唱えれば、観音様に救ってくれるのです
観世音 南無仏 与仏有仏 与仏有縁 仏法僧縁 常楽我浄 朝念観世音 慕念観世音 念念従心起 念念不離心
観音様を信じてください。仏にめぐり会えるおかげで、常・楽・我・浄の四徳を私に抱かせるために.朝な夕なに観世音を念じます、
此の一念は、私のこころの中からでなく、私の心中に秘められ、心のねがいであります。と言う意味であります・
この世は無常であり無楽で有り、無我であり、不浄である。だからこそ欲を捨てていけば、必ず、命がいただけるとのことです。
煩悩があるから、人は苦しみ、突如にして命が終わる時を迎えるのです。
朝夕に観音経を唱えれば、観音様に救ってくれるのです
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13:22
滋賀県大津市にある西教寺の法要「法華千部会」はコロナ感染防止のため、一日で執り行うことになりました。
あの荘厳な、華やかな法要が、一日でしなければいけないのが大変残念です。しかしながら、人々の健康を大切してこそ、
仏教行事ではないでしょうか。本来お寺のあるべき姿は、人々の安穏を願うためにあるのです。
古来、奈良時代では、多くの人々が、疫病、自然災害で、なくなりました、天皇も命を落としました。そんななか、僧侶が、なんとか災いを除かす事を狙いにして、厄除け祈願をしたのが、お寺でした。東大寺の大仏を建立されたのも、その一つです。
お寺で、護摩行をしたのもそうですし、いろんなお祈りをして、今の時代があるのです。
だからこそ、お寺はなくてはならないのです。お寺は、人々のよりどころです。
私の守っている玉泉寺もそうです。
今回の西教寺は、明智光秀の菩提所であり、人々が歴史のロマンを感じてもらうために、何千人とお参り頂きました。
その西教寺で法要をすることは、大変有りがたいことです。
今回、末寺の檀家さんのお参りは断りましたが、4月5日十時~十七時まで法要をおこないますので、お参りください。密にならない程度に
此の法要の趣旨は、コロナなどの疫病退散と先祖供養ででございます。
だけども、あくまでもひとびとの安全が第1でデスので、ご自宅から西の空に向かってお祈り頂けば、それだけで、お参りいいただいた事になります。
一日も早く疫病が終息するよう願うのが、お寺の法要です。
あの荘厳な、華やかな法要が、一日でしなければいけないのが大変残念です。しかしながら、人々の健康を大切してこそ、
仏教行事ではないでしょうか。本来お寺のあるべき姿は、人々の安穏を願うためにあるのです。
古来、奈良時代では、多くの人々が、疫病、自然災害で、なくなりました、天皇も命を落としました。そんななか、僧侶が、なんとか災いを除かす事を狙いにして、厄除け祈願をしたのが、お寺でした。東大寺の大仏を建立されたのも、その一つです。
お寺で、護摩行をしたのもそうですし、いろんなお祈りをして、今の時代があるのです。
だからこそ、お寺はなくてはならないのです。お寺は、人々のよりどころです。
私の守っている玉泉寺もそうです。
今回の西教寺は、明智光秀の菩提所であり、人々が歴史のロマンを感じてもらうために、何千人とお参り頂きました。
その西教寺で法要をすることは、大変有りがたいことです。
今回、末寺の檀家さんのお参りは断りましたが、4月5日十時~十七時まで法要をおこないますので、お参りください。密にならない程度に
此の法要の趣旨は、コロナなどの疫病退散と先祖供養ででございます。
だけども、あくまでもひとびとの安全が第1でデスので、ご自宅から西の空に向かってお祈り頂けば、それだけで、お参りいいただいた事になります。
一日も早く疫病が終息するよう願うのが、お寺の法要です。
Posted by 住職日記 at
11:05
この節分は、毎年勤めていますが。今年は、疫病が蔓延して一年がたちます。ことしこそ、終息の光は見えてこないと。
社会が成り立ちません。いまこそ、鬼は外、福は内です。法華経を読寿して、人々の息災、社会の復興を祈願しました。
今は、神仏のご加護を求めないと、人々は生きていけません。
私たちには、仏さまを念じ、信ずることで、心の安らぎを覚え、又生きて行こうという勇気が得られるのです。そうして、後世の人々の幸せを祈るのです。
そうでないと、僧侶はいらないと思います。僧侶は、厳しい修行を、地獄を見て、這い上がり、そうして、生きる人々の心に寄り添い、なんとして、
生き延びていただき、そうして、人々に惜しまれながら、二つの眼を閉じていくのであります。私はここに生きてきましたよと、自信をもてる生き方をもらうために、僧侶がいるのです。僧侶は、毎日、修行しているのです。修行にお布施という対価をいただくのです。そのいただいたお布施は、又人々のために、お返しいたしのです。そうでなかったら、お布施はもらいません。わたしも限りあるいのちに感謝して、そうして、人々の心に
寄り添っていかねばならないと思っています。
社会が成り立ちません。いまこそ、鬼は外、福は内です。法華経を読寿して、人々の息災、社会の復興を祈願しました。
今は、神仏のご加護を求めないと、人々は生きていけません。
私たちには、仏さまを念じ、信ずることで、心の安らぎを覚え、又生きて行こうという勇気が得られるのです。そうして、後世の人々の幸せを祈るのです。
そうでないと、僧侶はいらないと思います。僧侶は、厳しい修行を、地獄を見て、這い上がり、そうして、生きる人々の心に寄り添い、なんとして、
生き延びていただき、そうして、人々に惜しまれながら、二つの眼を閉じていくのであります。私はここに生きてきましたよと、自信をもてる生き方をもらうために、僧侶がいるのです。僧侶は、毎日、修行しているのです。修行にお布施という対価をいただくのです。そのいただいたお布施は、又人々のために、お返しいたしのです。そうでなかったら、お布施はもらいません。わたしも限りあるいのちに感謝して、そうして、人々の心に
寄り添っていかねばならないと思っています。
Posted by 住職日記 at
09:36