仕事に一番邪魔になるものは怠ける心である。
人は誰でも生まれつき怠け者です。だから、肉体的に日常的な状態から脱却するためには、常に努力が必要で有ります。放っておけば仕事は誰だってそれほどやりたいものではない。ならば、仕事をするためにどうするか。
怠ける心をおさえて、仕事に向かわせる最も有効な手段として役立つのは、習慣という偉大な力で有ります。
仕事を喜んでする習慣をつければ、怠け心の抵抗を弱められ、むしろ仕事をしないでは、過ごせないようになる。そこまで行ったとき、人は生きる喜びを得たことになる。
人は誰でも生まれつき怠け者です。だから、肉体的に日常的な状態から脱却するためには、常に努力が必要で有ります。放っておけば仕事は誰だってそれほどやりたいものではない。ならば、仕事をするためにどうするか。
怠ける心をおさえて、仕事に向かわせる最も有効な手段として役立つのは、習慣という偉大な力で有ります。
仕事を喜んでする習慣をつければ、怠け心の抵抗を弱められ、むしろ仕事をしないでは、過ごせないようになる。そこまで行ったとき、人は生きる喜びを得たことになる。
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08:07
志という漢字は、十にひとつの心と書きます。
十と言う数字は、人間のもろもろの煩悩や欲望を意味します。その欲求九つを捨てて、本当に欲しい、したいことを一つにすることであります。一事にすべての情熱、エネルギーをかけることと意味します。
十の心から、九つを捨てて、一つにいのちをかけられる。つまり人間は一つのことを成し遂げることに成功することである。
そのために耐えぬくことであります。たくさんの強い欲求を切り捨て、き然として立ち向かうことである。
不屈不撓の精神力を持って、動けば必ず何かが変わる。それは心である。それは心だ。心は眼に見えない。その目には見えない。その目に見えない心が変われることで人生が変わってくる
十と言う数字は、人間のもろもろの煩悩や欲望を意味します。その欲求九つを捨てて、本当に欲しい、したいことを一つにすることであります。一事にすべての情熱、エネルギーをかけることと意味します。
十の心から、九つを捨てて、一つにいのちをかけられる。つまり人間は一つのことを成し遂げることに成功することである。
そのために耐えぬくことであります。たくさんの強い欲求を切り捨て、き然として立ち向かうことである。
不屈不撓の精神力を持って、動けば必ず何かが変わる。それは心である。それは心だ。心は眼に見えない。その目には見えない。その目に見えない心が変われることで人生が変わってくる
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07:09
人生は出会いだ、日々の出会いは新鮮な驚きと発見である。出会いは感動であり、人は感動によって成長する。。深い感動は、人生に対する問いとなりたい自分という目標をいつも持つことによってはじめて生まれる。
人は時に胸を打つ言葉に感動する。また、ここに残る美しい言葉、いのち盛んなる生き物とで出会う悦びがあります。
豊かな自然、すぐれた芸術作品、良書にめぐり逢うひとときに心ふるえる。敬愛してやまない師友の風貌と謦咳(けいがい)に接して心あらわれるしばしの時が何よりの至福で有ることにきづいていただければ、ありがたいと思います。
人は時に胸を打つ言葉に感動する。また、ここに残る美しい言葉、いのち盛んなる生き物とで出会う悦びがあります。
豊かな自然、すぐれた芸術作品、良書にめぐり逢うひとときに心ふるえる。敬愛してやまない師友の風貌と謦咳(けいがい)に接して心あらわれるしばしの時が何よりの至福で有ることにきづいていただければ、ありがたいと思います。
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06:03
三万日というと、八十二歳と2ヶ月です。この年を生きられたのは、あのお釈迦様です。
人生三万日を五千日で区切ると、最初の五千日は、十四歳の時です。十四歳と言えば、元服の年です。孔子は、「十五にして学に志し」と言う。
次ぎに五千日は、二十七歳を過ぎたころです。孔子は「三十ににして立つ」と言いました。お釈迦様は二十九歳で道を求めて出家されました。いわば、生き方を求める自立の年頃でしょうか。この最初の一万日は、学びの一万日であります。からだの動かし方から始まり、言葉を覚え、知識を得て、遂に生き方を学ぶころであった。
次の一万五千日は、四十一歳の誕生日の直後です。この年を厄年に当てはまります。人生の折り返し時点です。上り坂から下り坂とも言われています。いわゆる惑いの年齢です。
次ぎに二万日は、五十五歳の誕生日の直前。サラリーマンの定年のころです。定年は、天命を知る年齢です。死を考える時期ではなかろうかと思います。
生後一万日から二万日までは、人生の花にたとえられる時期です。仕事や結婚、家庭など一番華々しく活躍するのが一万日です。
次ぎに二万五千日は、六十八歳のころです。孔子は耳に従う年齢と言っています。自分が知った天命に耳に従うことを意味します。
最後の一万日は、死の準備をすると言うことです。五十五歳で定年して、十五年間、死を考えて、いかに後世の人に受け継がせることを考える年頃です。そうして、涅槃の地におもむいていくものと信じたい。
人生三万日を五千日で区切ると、最初の五千日は、十四歳の時です。十四歳と言えば、元服の年です。孔子は、「十五にして学に志し」と言う。
次ぎに五千日は、二十七歳を過ぎたころです。孔子は「三十ににして立つ」と言いました。お釈迦様は二十九歳で道を求めて出家されました。いわば、生き方を求める自立の年頃でしょうか。この最初の一万日は、学びの一万日であります。からだの動かし方から始まり、言葉を覚え、知識を得て、遂に生き方を学ぶころであった。
次の一万五千日は、四十一歳の誕生日の直後です。この年を厄年に当てはまります。人生の折り返し時点です。上り坂から下り坂とも言われています。いわゆる惑いの年齢です。
次ぎに二万日は、五十五歳の誕生日の直前。サラリーマンの定年のころです。定年は、天命を知る年齢です。死を考える時期ではなかろうかと思います。
生後一万日から二万日までは、人生の花にたとえられる時期です。仕事や結婚、家庭など一番華々しく活躍するのが一万日です。
次ぎに二万五千日は、六十八歳のころです。孔子は耳に従う年齢と言っています。自分が知った天命に耳に従うことを意味します。
最後の一万日は、死の準備をすると言うことです。五十五歳で定年して、十五年間、死を考えて、いかに後世の人に受け継がせることを考える年頃です。そうして、涅槃の地におもむいていくものと信じたい。
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08:50
本日、午後、埼玉の医者に従事する人、大分市より田中氏の末柄の田中さん、福岡市の田中吉政の顕彰会の方、八女市より文平座座長の方らがお越しいただきました。私一人でなく、地元の郷土史を研究している人2人と高島歴史民俗資料館の白井さんに来ていただき、田中吉政の消息をたずねに来られました。
田中吉政公は、信長に仕え、秀吉の五奉行に抱えられるほど、信望が厚かったそうです。石田光成にも関わりが深く、歴史の表舞台には出なかったのですが、戦国時代を生き延びた方です。
信長の生き方、秀吉の町作りを学び、35万石の大名であったことをしゃべっておられました。
田中吉政公は、信長に仕え、秀吉の五奉行に抱えられるほど、信望が厚かったそうです。石田光成にも関わりが深く、歴史の表舞台には出なかったのですが、戦国時代を生き延びた方です。
信長の生き方、秀吉の町作りを学び、35万石の大名であったことをしゃべっておられました。
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19:38
本日、昼前、滋賀県文化財保護課主催のウオーキングで49名の人々が玉泉寺に来られました。
このウオーキングの目的は、継体天皇の遺跡を訪ねてこられて、当山の石仏を見学に来られました。大変ありがたいことです。多くの方が本堂に入られ、多くの仏さまと出会われて、私自身うれしく思いました
このウオーキングの目的は、継体天皇の遺跡を訪ねてこられて、当山の石仏を見学に来られました。大変ありがたいことです。多くの方が本堂に入られ、多くの仏さまと出会われて、私自身うれしく思いました
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20:44
最近、24時間営業のコンビニなどのサービス業が多くなってきている。働く従業員は、8時間労働で交代勤務をされていますが、店主さんは、自分が休んでいるときでも、気になり休むと言う行為ができない。地域に住んでいる人は、夜中でも営業しているので、便利でいいのですが、果たしてどうであろうか。
休むと言うことは、自分らしく生きるための行為で有ります。休みは、演劇や映画を見に行って、充電することで、新たな生き方をすることであります。
佛教では、修行中に5日に一度、自分を見つめるために、休息をしなさいと言うことです。在家の方の5日に一度、出家の生活をしなさい。これを斉日と言います。日常の働き、仕事を休む日となり、一日中遊びにいくのではなく、いいものを食べたり、ぜいたくしたり、するのではなく、自分自身のことをもっと見つめ直していくことであります。これはキリスト教の日曜日に休んでミサに行って礼拝することに似ています。
休みの日に、お寺に行って、佛教の経典を見たり、法話を聞いて過ごすことで、自分を見つめ直すことをお願いします。
休むと言うことは、自分らしく生きるための行為で有ります。休みは、演劇や映画を見に行って、充電することで、新たな生き方をすることであります。
佛教では、修行中に5日に一度、自分を見つめるために、休息をしなさいと言うことです。在家の方の5日に一度、出家の生活をしなさい。これを斉日と言います。日常の働き、仕事を休む日となり、一日中遊びにいくのではなく、いいものを食べたり、ぜいたくしたり、するのではなく、自分自身のことをもっと見つめ直していくことであります。これはキリスト教の日曜日に休んでミサに行って礼拝することに似ています。
休みの日に、お寺に行って、佛教の経典を見たり、法話を聞いて過ごすことで、自分を見つめ直すことをお願いします。
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18:00
われ、今受けるは、道業のための食、十方の如来に捧げ、護法の神技に奉り、六道の生類に施し、平等に今食を受ける。まさに良薬を服するの想いに住して、法体を長養し、三宝の恩に報いたてまつらん。謹みて天地の恵みを思い、品の多少を選ぶことなし、いただきます。
というふうに食前の言葉です。
食事は、お百姓さんに感謝して、良薬のごとく、体に栄養を与えて、どうか、寿命を延ばしていただけるよう、いただくことを感謝して取るのであります。また、六道に生きる餓鬼らに施して、平等に食事を取らせてもらうのです。自分だけが食事をするのではなく、私の周りに生きる虫や動物にもおすそわけして、みんなが幸せにすることでなければ、寿命が延びないと言うことです。
いわゆる自分が幸せに生きると言うことは、周りの人々が幸せにならなければ、生き延びることがないと言うことです。
食事が終わると、願わくは、この心身を捧げて、己が道業にいそしみ、一切の悪を断じ、一切の善を修し、一切の衆生を救い、広く仏道に回向し、誓って三宝の恩に報い奉らん、ごちそうさまでした。
というふうに食前の言葉です。
食事は、お百姓さんに感謝して、良薬のごとく、体に栄養を与えて、どうか、寿命を延ばしていただけるよう、いただくことを感謝して取るのであります。また、六道に生きる餓鬼らに施して、平等に食事を取らせてもらうのです。自分だけが食事をするのではなく、私の周りに生きる虫や動物にもおすそわけして、みんなが幸せにすることでなければ、寿命が延びないと言うことです。
いわゆる自分が幸せに生きると言うことは、周りの人々が幸せにならなければ、生き延びることがないと言うことです。
食事が終わると、願わくは、この心身を捧げて、己が道業にいそしみ、一切の悪を断じ、一切の善を修し、一切の衆生を救い、広く仏道に回向し、誓って三宝の恩に報い奉らん、ごちそうさまでした。
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17:47
私たちは、自然に生かされているのである。水、空気、土、は自然の元素である、
水がなければ、生きることはできません。先日、しつけと称して山のなかに置き去りにされたが、その子は、山の中を歩き通して、小屋を見つけ、水だけで1週間生き延びたことがありました。また、比叡山の修行僧は、水だけで修行を満行すると聞きます。それほど水は私たちの暮らしの中では、水は必要です。
次ぎに空気は、呼吸のもとです。息ができなければ、生きられない。
最後に土は、米や作物を作れます。そして水や空気がなければ、育てられません。
これら3つは私たちが生きていくための必要なものであり、自然に感謝することです。
生きてためにも、自然を大切にして、子や孫に残してやらないと、かわいそうです。今こそ私たちの智慧を結集して、自然に優しい暮らしを見出して生きたい。」
水がなければ、生きることはできません。先日、しつけと称して山のなかに置き去りにされたが、その子は、山の中を歩き通して、小屋を見つけ、水だけで1週間生き延びたことがありました。また、比叡山の修行僧は、水だけで修行を満行すると聞きます。それほど水は私たちの暮らしの中では、水は必要です。
次ぎに空気は、呼吸のもとです。息ができなければ、生きられない。
最後に土は、米や作物を作れます。そして水や空気がなければ、育てられません。
これら3つは私たちが生きていくための必要なものであり、自然に感謝することです。
生きてためにも、自然を大切にして、子や孫に残してやらないと、かわいそうです。今こそ私たちの智慧を結集して、自然に優しい暮らしを見出して生きたい。」
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08:18
のみ(鑿)をくれと言われたら、即座にそれに必要なつち(鎚)を同時にもってくることです。つまり何につけても気のつくことのたとえです。
ことわざに、一を聞いて十を知ることと同じであります。
のみは大工の必要な道具であり、左手に持ち、右手の鎚で、その頭をたたいて材木に穴を開けたり、溝をつけたりします。
なにも全体を見えなくても、重箱の隅がわかるのが眼力のある人です。またちょっとした言葉を聞いただけで、他人の心の奥底を見抜ける人間になるには、長い修練を経た後、はじめて到達できるのです。
いわゆる物事の真相を洞察するには全体を見、将来を見通す智慧が必要と言うことになります。これを縁起の法と言います。
あうんの呼吸になるには、お互い我慢して、良好な関係を作らなければならないのが修行です。
この修行をしたなれば、成功者になれるのではないでしょうか。
ことわざに、一を聞いて十を知ることと同じであります。
のみは大工の必要な道具であり、左手に持ち、右手の鎚で、その頭をたたいて材木に穴を開けたり、溝をつけたりします。
なにも全体を見えなくても、重箱の隅がわかるのが眼力のある人です。またちょっとした言葉を聞いただけで、他人の心の奥底を見抜ける人間になるには、長い修練を経た後、はじめて到達できるのです。
いわゆる物事の真相を洞察するには全体を見、将来を見通す智慧が必要と言うことになります。これを縁起の法と言います。
あうんの呼吸になるには、お互い我慢して、良好な関係を作らなければならないのが修行です。
この修行をしたなれば、成功者になれるのではないでしょうか。
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07:45