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Posted by 滋賀咲くブログ at

2016年10月27日   仏法は無我にて候

仏法は、無我の境地に至ることではないかと考えます。ということは人間は、煩悩を持つ生き物です。煩悩があるが故に、苦があり、悩み、そしてのたうちまわるのです。反省、座禅をして、生きなおすことが出来る唯一の道なのです。さらに言えば、相手を立て、人を立てる。これが無我の境地なのです。理屈を並べていては無我ではない。相手の身、人の身、その人の身になりきってあげることです。
お釈迦様は、徹頭徹尾その姿から何もかもいいようがないまでも、あたたかな心配り、気遣いをの人々のみこころの隅々にまで行き届かせてくださっています。
 私も、お坊さんです。かたよることなく、中道に生きることです。目は半眼の境地です。開けているかあいていない心にいることです。
 みんなが幸せに暮らせるように、仏法を説き、安心なる心を持ってもらうこそ、仏の無我の境地で有ります。



Posted by 住職日記 at 08:55